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90年代中日BEST9は? ドーム対応の機動力、ディフェンス野球で新時代に光明/プロ野球回顧録

1/11(土) 11:02配信

週刊ベースボールONLINE

近くて遠い90年代プロ野球――。いまから20年以上前、各球団ではどのようなことが起こっていたのか。プロ野球が熱かった90年代を12球団ごとに振り返る。

移籍時の中日の印象、ナゴヤ球場の思い出。そして今季のドラゴンズ/谷繁元信コラム

「国民的行事」で敗戦

 90年代の中日は、毎シーズンのように優勝争いに顔を出す力を持ったチームではあった。しかし、こと大一番には弱く、10年間で2位が5度。88年にペナントレースを制して以来、長らく優勝からは遠ざかっていた。

 星野仙一監督が率いて4年目の90年は、ルーキー・与田剛が31セーブ、35セーブポイントで最優秀救援投手賞と新人王を受賞する大活躍。打線でも落合博満が本塁打と打点の2冠を獲得して気を吐いたが、先発投手陣が不甲斐なく、62勝68敗と4位に低迷。星野竜をなって初のBクラスという不本意な形で90年代のスタートを切る。翌91年は優勝争いも佳境に入った9月に、今度は打線が沈黙。2位に終わり、5年間チームを率いた星野監督が退くことになった。

 新監督・高木守道を迎えた92年は主力に故障が相次ぎ12年ぶりに最下位の屈辱。翌93年はリーグ最多の158本塁打、さらには山本昌広、今中慎二の両左腕がそれぞれ17勝を挙げて最多勝の活躍も、これに続く3本目の柱が現れず優勝を逃してしまう。

 FAで落合が巨人に去った94年は、プロ野球史に残る世紀の一戦が待っていた。巨人との一騎打ちとなった優勝争いは、最終130試合目の直接対決に持ち込まれる。10月8日に行われたこの試合は、巨人・長嶋監督いわく「国民的行事」。テレビ視聴率が過去最高の48パーセントを記録するなど、ファンならずとも注目のゲームは、皮肉にも落合に先制弾を浴びて中日は涙をのむ。

 95年は投手陣が崩壊し、防御率が4.75の12球団ワーストと散々。高木監督はシーズン半ばに辞任し、徳武定祐監督代行、島野育夫監督代行が指揮するドタバタ劇で借金30の5位に沈んだ。

チームの低迷に再び白羽の矢

 チームの低迷に再びこの男に白羽の矢が立った。炎の男・星野仙一だ。5年ぶりに指揮を執る星野は、この後3年という歳月をかけて徐々に、そして着実にドラゴンズの野球に変化をもたらしていく。

 この間、96年は終盤に“メークドラマ”で浮上してきた巨人にまたも直接対決の「10.6決戦」で敗れ、目の前で胴上げを許す。本拠地をナゴヤドームに移した97年は、広くなった球場に惑わされ、5年ぶりの最下位。しかし、98年に阪神から久慈照嘉、関川浩一、ヘテから“韓国のイチロー”こと李鍾範を迎え入れ、ドーム対応の機動力野球に戦略転換し2位浮上。オフにはFAで武田一浩を、ドラフトでは福留孝介、岩瀬仁紀を獲得するなど補強を進めた。

 また、96年に加入した韓国の至宝・宣銅烈、この年新人ながら14勝を挙げた川上憲伸の台頭など、優勝を狙うに十分なタレントがそろってきた。

 そして待望の瞬間がやってくる。99年の快進撃はプロ野球タイ記録の開幕11連勝から始まり、そのままペナントレースの主導権を掌握することになる。特に、投手を中心とした守りの野球が特徴的だった。先発はこの年MVPに輝いた野口、武田、川上、山本昌。そこから落合、岩瀬、サムソンにつなぎ、最後は宣が締める勝利の方程式が確立した。打線もつなぎの野球に徹し、広いナゴヤドームに対応。そして歓喜の時を迎える。

 9月30日のヤクルト戦(神宮)はやはり最後は宣がマウンドに仁王立ちし、11年ぶり、5度目となる優勝が決まった。星野監督は亡き夫人の写真をポケットに忍ばせて、7度宙を舞った。惜しくも日本シリーズでは王ダイエーに敗れたが、ドーム対応の機動力、ディフェンス野球はこの後ドラゴンズの新しいお家芸となっていく。

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最終更新:1/11(土) 11:05
週刊ベースボールONLINE

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