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【特別連載】引き裂かれた時を越えて――「二・二六事件」に殉じた兄よ(7)「津軽義民」への道

1/12(日) 6:00配信

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〈祖母ガ病気ナリト聞キタレバ早速弘前ニ向フ。晝(ひる)頃浦町駅(注・青森市、現在は廃駅)ヲタチ、二時間許ニテ叔父ノ家ニツク。直チニ祖母ヲ見舞フ。スツカリ痩セ給ヘルニ驚ク、祖母ハ今年七十五才余命少キヲ悲シムベシ 叔父ノ家ニ泊ル〉

 二・二六事件=1936(昭和11)年=で蹶起し銃殺刑とされた青年将校の1人、青森出身の対馬勝雄中尉(享年28)。

 まだ16歳だった1924(大正13)年3月20日の日記の一節である。

 皇国軍人の志と精神をはぐくんだ仙台陸軍幼年学校がその2日前、「山梨軍縮」の一環で廃校となり(2019年12月18日『(6)廃校の憾み、少年の胸に宿り』参照)、2学年を修了したばかりの勝雄が理不尽な思い、傷ついた心を抱えて帰省した春休みの出来事だ。

 祖母とは、青森県田舎館村八反田出身の母親なみさんの母、阿保(あぼ)よし。幕末の1850(嘉永3)年に生まれ、若い頃は武家屋敷に奉公したという。

 連載のもう1人の主人公、勝雄と6歳離れた妹の波多江たまさん=昨年6月、104歳で死去=は、

「祖母の家には幾振りもの刀、袴などの入った長持ちがあり、子ども心にも凛とした厳しさを感じた人」

 と回想した。

「孫たちをかわいがり、打掛けを私たちの冬の綿入れに仕立て直してくれたり、漁師や農家の労苦がこもる食べ物を決して粗末にしないよう食事で教えたり、質素で物を大切にする立派な女性でした」

 田舎館村は父嘉七さんの生家(同村垂柳)もあって親類が多く、勝雄の生まれ故郷でもあった(2歳で両親と青森市に移住)。対馬本家は、嘉七さんと一緒に日露戦争に出征した長兄永吉が継ぎ、たまさんら子どもたちは母親に連れられて常々訪ねたという。

 青森市相馬町の実家から弘前まで東北本線に乗り、さらに津軽平野の真ん中にある田舎館に向かう田園の道筋=1927(昭和2)年には弘南鉄道が近くまで開通=は、母なる岩木山の姿とともに勝雄にとって常に懐かしく、無垢なる童心へと帰ってゆけた。

 先の日記の続きには、「弘前に行く途中」の題で、早春にも憂い濃い短歌二首が載る。

〈病む祖母を訪ふこの心淋しやな 枯木にうつる日はのどけきも〉

〈雪はえて明き山の村里は 北国の春を我にかたれり〉


■夏休みを過ごした古里

 勝雄の手紙や日記、身内や友人らの証言などをまとめた『邦刀遺文 二・二六事件 対馬勝雄勝雄記録集』(1991年、家族の自費出版)編纂のため、たまさんが記憶を掘り起こしたノート類の中にこんな一文がある。

〈小学校時代の夏休みはほとんど垂柳で過ごしたようです。宿題や勉強など一日もせず、村の子らと陣取りや兵隊ごっこに夢中になり、納屋にはいっては頭からワラをかぶってブーブー豚のまねをして、ヒビ(シビ=津軽弁でワラ屑)だらけになって遊びほうけていました〉

〈茲(ここ)には古い神社(神明様)がありました。境内にはものすごく深い井戸があって、おいしい水がのめました。お祭りには兄は踊りの輪に入って、大人の真似をしておどけて踊り、皆を笑わせました。兄にはよく友達ができました。この村にも幾人もの友達がいました。皆は兄の来るのを、たのしみにして待っていてくれました〉

 筆者は、昨年4月に訪ねた田舎館村を本連載『(4)青森・相馬町の浜から』(2019年10月12日)で紹介した。

 清冽な雪解け水に満ちた水田の輝き、日露戦争への村の出征者たちを顕彰する石碑が残る神明社、村の子どもと遊ぶ勝雄を見守ったであろう境内のイチイの古木。当時とほとんど変わらぬ景色がいまもある。

 たまさんは、小野銀次郎という勝雄の遊び友だち(故人)の弟さんの懐旧談を『邦刀遺文』に記している。

〈弘前の三十一聯隊の兵隊さんが行軍をして垂柳村の前を通ると、紺がすりの着物をきた勝雄さんが棒切れを鉄砲のように肩にかついで隊列の一番うしろから、大きく手を振りながらどこまでもどこまでもついていったものだった〉

 のどかで楽しい思い出にあふれた農村には、しかし、子どもの目にも残酷なほどの貧しさが同居していた。たまさんの4歳上の長姉、白井タケさん(故人)の言葉が同じ『邦刀遺文』にある。

〈私は(母の実家の)八反田の農家の娘たちと一緒に縄をなったり筵を織ったりしたことがあります。農家はみんな貧乏暮らしでした。小作人がどんなに貧しい暮らしをしていたか、今の人には想像もつかないでしょう〉


■想像を絶する貧しさ

 よほど強烈な体験であったのだろう。たまさんが記憶のノートに「農村の小作人の暮らし」として詳しく記し、筆者にもじかに語ってくれた話がある。たまさんが小学校高学年だった大正の末(1925~26年)と思われ、一編のルポといってもいいほど克明な小作農家の暮らしの描写である。仮名遣いも原文のまま紹介したい。

〈私は夏休み、ある村に泊った事があります。其処の家は大家族でした。とても貧しく、農家なのにお米をあまり食べていませんでした。畳はぼろぼろで穴があいて床の藁がみえてました。この家では畳の室(注・部屋)は一つで一番よい座敷だったのです。あとはみな板の間でした。私達は其の座敷に泊めてもらいました。電灯は一つよりなく、室と室との境に下げておき両方の室に使用していました。

 初めて泊った其の夜おそく、ふと話し声で目がさめました。すると其の家のおばあさんがうす暗い裸電球を手もと迄おろして、おぢいさんの下着のつくろいをしていました。眠ったふりをして聞いてますと、下着(肌じゅばんの様でした)の破れたところに当布がないと云って困っていたのです。夏の暑い夜でしたので、おぢいさんは裸に晒木綿の越中褌の白いのをしてましたので、いきなり褌の先を自分でばりばりとさいて之をおばあさんに差し出しました。私はびっくりしてしまいました。だが、おばあさんはおどろきもせず、平然として其の褌の切れはしを受取り破れを直し仕上げました。

 この家の廻りには小川も流れ、田舎なので木も草も多く蚊や虫も多いのに殆どの家には蚊帳もありませんでした。寝る前に蚊を追う為に枯木をいぶすだけでした。私達は、夜になって蚤と蚊に悩まされました。一晩中がばっとはねおきては蚤と戦いました。体中がかゆくって、寝つく事が出来ませんでした。蚤をとっては室の境の敷居の上で潰し、親指の爪は蚤の死骸と血が眞赤にこびりついて固まってしまいました。それ程沢山いたのです。

 皆なの寝室の中には、馬小屋の様に藁が敷いてあり、藁の上には布が敷かれて居て雑魚寝でした。子供達は寝巻もなく丸裸で寝てました。パンツもはいてなかったのです。

 次の朝ぼうっとして起きると、この家の嫁さんは縁側でおかっぱの子供も髪をすいていました。子供の膝の上には、大きな紙が広げられ櫛ですく度に何か黒い胡麻の様なものが頭からぱらぱらと沢山おちて来て動いているのです。何だろうと思って、のぞくと虱でした。この辺の子供は体にも虱がついています。頭につく虱は眞黒く、体につく虱は白いのです。初めて知りました。と同時にびっくりするばかりでした。

 この村には風呂屋さんがありません。四キロも田舎道を歩いて風呂に行くのです。したがって、風呂に行っても帰りには、がんがんする日光を浴びて、木の少ない田圃の道を帰るのですから、家に着く頃は汗と埃で又もとの体です。

 食べ物も粗末で野菜はありますが、良いのは売るので自分達の口には、ろくなものが入りません。それ程貧しいのです。皆な心では嘆いても、不平も言わず、一生懸命生きていたのです〉


■巨大地主と小作人

 大正末期の東北の農村は、地域の田畑を独占所有する巨大地主の時代となっていた。1924(大正13)年、農商務省が50町分(ヘクタール)以上の農地を所有する者を各県ごとに調査し、青森県内では105人の名が挙がった。

 水田で最大の地主は609町分という北津軽郡五所川原町の佐々木嘉太郎(金貸業)、次いで同町で365.6町分の平山又三郎(金貸業)、上北郡七戸町で327.5町分の盛田喜平次(農業)と続く。

 このランキングの6番目に作家太宰治の父親、北津軽郡金木町で218.9町分の津島文治(金貸業)がいる。

 対馬家の古里、田舎館村にも122.8町分の佐藤源蔵(農業)を筆頭に3人の大地主がいた。

『青森県農地改革史』(1952年)によると、これら一握りの大地主だけで県内全耕地の15%を所有し、総計1万6931戸もの小作人を傘下に抱えて耕作させていた。

 明治維新後の地租をはじめ国、地方行政が課す重い租税、度々の凶作、金貸しでもある地主への借金の累積、第1次世界大戦後の不況による米価下落、抜け目ない仲買商人の買い叩きなど、農家の首を真綿で締めるように重なった歴史が小作人の零落を進め、さらに地主の権利が圧倒的に優越する小作の契約・慣習が逃げ場なき貧困へと追い込んでいった。

 東北にはどこも同様の現実があり、1925(大正14)年に始まる事件を扱った秋田県の『森吉町史』資料編の『阿仁前田小作争議報道記録集』(1977年刊)に、背景として次のような理由が記されている。

〈小作契約、それは地主と小作人の農業経営及びその家計の基本になる小作契約の上にも露骨に所有権の一辺倒があらはれ、口約束、証書契約を問はず小作料は大体平年収穫高の半分が常例であった。この荷重負担は小作人に蓄積を残す余裕を与えず、一たび凶作に遭うとか、長わずらいすれば地主の情にすがって小作料を負けて貰い、飯米を借りその上翌年の作扶持まで借りて窮場をしのぐのが普通であった〉

〈勤勉な小作人は模範として賞賛されながら親代々の小作人の立場で大地主を一層大地主たらしめた。大地主の小作人はその『出入り』であることに誇をすら感じて居た〉=いずれも『秋田県農地改革史』(1953年刊)よりの引用=

「五公五民」の言葉が残る江戸時代の重い年貢と何ら変わらず、ロシア帝政時代の農奴にも似た状況に忍従した小作農家もやがて、怒声とともに団結し窮状改善を訴え始める。大正10年代から全国へ爆発的に広がった小作争議である。

 それ以前にも、政府が産米の品質標準化のため1915(大正5)年に導入した「米穀検査制度」をめぐり、小作人の負担が増えたり、制度普及の奨励米給付を地主側が拒んだりしたことへの抗議が、西日本などで盛んに起きた。

 だが、第1次世界大戦とロシア革命の後、民主主義、社会主義などの新思潮と労働運動の広がりが小作争議に新たな火を点けた(『(6)「廃校の憾み、少年の胸に宿り」』2019年12月18日参照)。

 とりわけ封建的といわれた東北の農村でも、前述の阿仁前田(秋田県前田村)とともに大規模な小作争議の嚆矢となる事件が1926(大正15)年、田舎館村と同じ青森県津軽の車力村(合併し、つがる市)で起きた。『車力村史』(1952年刊)などの資料を基に経過を再現してみたい。


■車力村小作争議

 津軽半島西岸にある車力村で小作争議が始まったのは1926年5月1日の早朝。

 村内や近隣の木造町、中里町、稲垣村などから約650人の小作人が鎮守の森に集い、

「聞け万国の労働者 轟きわたるメーデーの 示威者に起こる勝鬨は 未来を告げる鬨の声……」

 とインターナショナルの歌を響かせた。

 むしろ旗、赤旗を翻してのデモ行進は、青森県で初めてのメーデーと記録される。

 デモの先頭にビラを貼った戸板を掲げ、

「小作人から田畑をとりあげるな」

「小作人から飯茶碗を取り上げるな」

「小作料をまけろ」

「小作人を人間扱いにせよ」

「小作人の生き血を吸う鬼畜地主を倒せ」

 などのスローガンを訴えた。

 その2年前、車力村農民組合が村の医師岩渕謙一と仲間の農民らによって組織され、浅沼稲二郎らの日本農民組合関東同盟、青森出身の労働運動家・大沢久明らの北部無産社などが小作争議を支援。昔の突発的な百姓一揆と異なり、小作人の権利と農村の貧困をめぐる問題の抜本的解決を求め、地主と全面対決した。

「底なし沼の米作り」という絶句させられる写真が、『車力村史』の小作争議史の項の末尾にある。手拭いを被り野良着に手甲の農夫が、胸まで泥田に浸かって苗を植える姿だ。

 湿地の多かったこの地方では津軽藩時代から新田開発が進められたが、日本海とつながる十三湖から塩水が逆流しやすく、排水環境も悪く水害が頻発し、また本州北端の冷害常習地でもあった。そこで生きる農民には、腰まで浸かれば「腰切り田」、胸なら「乳切り田」と言われた泥田の重労働が加わった。

〈隔年で水害と冷害に悩まされる、減収による小作料の減免を乞うと地主は、弱い者には玄関払い、手答えの(注・反発する)小作人には酒肴で誤魔化して、一粒も負けてくれなかった〉(『車力村史』より)

 収穫高の5~6割の小作料ばかりでなく、新たな田畑を借りると小作料1年分を前納する「前作米」(収穫期には正規の小作米も納める)、また4年に1回は地主への感謝の印に小作米1年分を献ずる「礼米」という理不尽極まる慣習も存在し、農民を苦しめ続けた。

 冬とて体を休めるいとまもなく、多くの男たちが北海道、千島の漁場などへの苛酷な出稼ぎに向かった。

 車力村小作争議は、十三湖に注ぐ岩木川の大水害の後でさえ容赦なく平年の小作料を取り立てる地主に対して農民が軽減を要求し、地主側は小作地取り上げで対抗しようとし、双方が互いを不当と訴える裁判闘争に発展した。

 車力村の争議は新聞報道や労農運動のネットワークを通じて県内外に伝えられ、村内だけで計10地区に農民組合が次々と結成された。 

 24~25歳の青年が集った車力村農民組合のリーダー岩渕謙一は、村唯一の医院を父親から受け継ぎ、農耕馬にまたがり無休で往診にも出掛けた。患者は小作人の家族。泥田での重労働と過労、貧しい食生活による栄養失調が原因の結核や神経痛、家々で燃料にするサルケ(湿地土壌の泥炭)の煙によるトラホームが多かった。

 岩渕は家財を切り売りしながらの無料診療とともに、生卵などを患者に配り、「病気を治すには貧乏を追放すること」を信念にしていった。小作人たちと膝詰めの座談会、研究会を重ね、「挨拶の仕方が悪い」と小作田を取り上げるまでの地主の横暴と闘うため、農民たちの団結と行動を呼びかけるに至った。


■「二・二六事件の原点」

「車力村小作争議は、二・二六事件の原点だった」――。

 同事件で銃殺刑となった青年将校らの遺族会「仏心会」(香田忠維代表理事)で監事を務める今泉章利さん(69)=千葉県柏市在住、『(3)デスマスクが語るもの(後編)』(2019年9月29日)参照=は、「昭和維新」を合言葉に国家改造を訴えたかつての青年将校の1人、末松太平氏(故人)=著書に『私の昭和史』(みすず書房)=からそう聞かされた。

 事件の後に禁固4年の判決を受け免官された末松氏は、青森市にあった陸軍歩兵第五連隊の歩兵大尉だった。陸軍士官学校予科時代の1925年に見習将校として第五連隊に配属され、1927年春、士官学校本科の卒業(39期)とともに同じ連隊に復帰した。その間にも車力村小作争議は激しさを増しており、農村をめぐる問題をリアルタイムで見聞する中で注目していたに違いない。

 今泉さんが末松氏を千葉市の自宅に訪ねたのは、88歳で亡くなる3年前の1990年5月。

 その前年、末松氏が雑誌『史(ふみ)』(現代史懇話会)に連載中だった『二・二六事件断章』に、士官学校で2期下だった青森ゆかりの同志、勝雄をしのんで書いた『津軽義民伝』を、今泉さんが読んだことがきっかけだったという。(以下はその一節)

〈二・二六事件は軍服を着た百姓一揆であった。対馬中尉に於いては、郷里津軽農民の構造的貧困を抜本的に救わんがための蹶起であった。正に津軽義民伝であった。部分である農民の救済は全体の国家の革新なくしては不可能である〉

〈昭和維新を志す青年将校は眼前の国政の腐敗を座視できず、非合法急進こそが昭和維新達成の道であり、青年将校の使命であると覚悟した。その代表的存在が対馬中尉であった〉

「その時、末松さんは真っ先に車力村小作争議の資料を見せ、『これこそ二・二六事件の原点』ときっぱりと語った。泥田に農夫が漬かった写真のある『車力村史』だったと思う」

 と、今泉さんは回想する。

 当時の地主階層は地場の金融や産業をも牛耳り、名士として町村や県から優遇され、地元選出議員や首長などの座を占めた。高額納税者には貴族院議員資格も与えられ、中央でも大きな政治力を誇り、政府もまた国家安定の土台として彼らを保護した。

 岩渕謙一医師は最後、地主らが力を持つ村会(現在の村議会)から医師資格剥奪を決議され、車力村から追放同然に退去させられた。農民組合もやがて官憲の露骨な弾圧に遭う。

 しかし、巨大な壁のような地主たちに挑み、先駆けとなって農村問題解決を訴えた岩渕や小作人たちの行動を、末松氏は深い共感をもって青年将校たちの蹶起と重ねたのだった。


■少年時代の終わり

 勝雄の心を癒す場所だった農村は、すでに大正年間には純朴なる「楽園」ではなくなっていた。

 東京陸軍幼年学校の3学年に転入後の1924年の日記でも、

〈講道館ニ柔道見学ニ行ケリ〉

〈上野博物館見学ヲナシ、芝高輪泉岳寺ニ御参リス〉

〈東京陸軍少年学校卒業将校ノ同窓会当校ニテ挙ゲラル。秩父宮雍仁殿下 賀陽宮恒憲王殿下 本校ニナラセラル〉

 といった東京の華やかな日常風景の間から、切ないほどの望郷の思いが湧き出す。

〈思ひ出づるままに(晩)

祖母逝きて三月はたちぬ夏に入りぬ

夕べの葉音淋し泣きたし〉(6月23日)

〈祖母の死 七月四日

今年卯月の 花ほろと

散りて寂しも その夕べ

津軽の野辺に 月いでて

我が祖母逝くを てらしけり

黄泉にたつを てらしけり〉

 勝雄にとって祖母の死は、村で人気者の少年でいられた日々の終わりを告げるものでもあった。

 小作争議はさらに燎原の火のように広がり、1928(昭和3)年には田舎館村でも農民組合が結成された。

 たまさんは、休みに古里へ帰るたび笑顔の裏で苦悩を膨らませていった兄に思いを馳せ、記憶のノートにつづった。

〈兄は、この様な農家の生活にたえず接して来たのです。農村の中でも最もみじめな小作人の暮らしを肌で知っている兄の心中が私にも徐々に判って来ました。(農民は)食うや食わずの中でも美しい心でも汚れた金には手を出さず、本当に美しい心で村をささえたのです。

 この様な農村の働き手の若者が(やがて)国の為、陛下の為と勇んで戦地に向かったのです。兄は、自分よりも何段も下の暮らしを見て育ちました。純な心には、一寸した不正も許せなかったのです。この貧しい農民と陛下の為に、命はいつでも捧げる覚悟は出来ていたのです〉

 同胞の苦しみを我が苦しみと背負った先には、自らも「津軽義民」の道をたどるほかない未来が続いていた。

ジャーナリスト 寺島英弥

最終更新:1/12(日) 6:00
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