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「母国に帰れなくなった助っ人」は、 なぜプロ野球で成功できたのか?

1/16(木) 6:40配信

webスポルティーバ

ちょうどその頃、母国では政変が進行しつつあった。58年オフに一時帰国したバルボンさんが再び日本へと向かった直後、59年1月にキューバ革命が起きる。カストロ政権が成立すると米企業の財産を国有化する政策によってアメリカとの関係が悪化し、のちに国交が断絶。結果、バルボンさんは長らくキューバに帰れなくなった。日本滞在を余儀なくされ、個人の力ではどうしようもなく人生を左右される苦難があったなか、なぜ長年、助っ人として活躍できたのだろうか。

 スカイマークスタジアム(現・ほっともっとフィールド神戸)内のオリックス球団事務所。応接室で10分ほど待っているとバルボンさんが現れた。立ち上がって挨拶をすると一瞬、背筋をピンと伸ばし、笑顔で「ヨロシク」と応えてくれた。すらりとした細身の体型で褐色の肌にはつやがあり、73歳とは思えない。まずは初来日の記憶をたどってもらう。

「もう50年以上も前の話、当時、キューバから日本に来るまで3日かかったよ。ジェットない時代、プロペラや。ハバナからマイアミ行って、シカゴ、カリフォルニア行ってな。カリフォルニアからハワイだ。ハワイ着いたらね、ものすごい暖かかった。だから日本も同じとばっかり思ってたんや」

 来日は2月のことだったから日本は真冬。半袖姿のバルボンさんを乗せたプロペラ機が羽田空港に到着した。

「着陸して外見てたらね、白い粉いっぱい......。なんじゃあ? これっ。そしたら雪や。もちろん見たの初めて。キューバではないわな。それから東京、2~3日おったけど、寒くて外出なかった。今みたいに暖房ないし、旅館泊まったから火鉢あるだけ。こりゃ寒い! そこでキューバに帰りたくなったわ。でも、帰らんかったね。帰らんで、あれから50年以上経ってる。ハッハッハ」

話すほどに声のトーンが上がり、顔をくしゃくしゃにして笑う。つらかった話をここまで明るく話す方は滅多にいないと思うが、つらさはチームのキャンプに合流した後も変わらなかった。

「みんな雪のなかで練習やってた。なんでこんな寒いなかやってるの? と思ったよ。ボクは走っても寒いから、火の横ばっかりしかおらへん。だからある日、キャンプ終わって明石で試合やったとき、ボク、セカンド守っててライナーきた。捕ろうとしたら腕が上がんない、寒くて。あれ、真っ正面きたら、おそらく顔当たってたと思う。とにかく動かない。それがいちばん印象に残ってるわ」

 ごく普通に会話できているのでつい忘れてしまう。バルボンさんの母国キューバの公用語はスペイン語だ。マイナー時代に英語を習得したそうだが、きっと来日当時は言葉の面で苦労したはずだ。

「あの当時、通訳なしや。はじめ、名前のこと聞かれたんやな。ロベルトか、バルボンか、どっちや、言われたから、『チコ』と呼んでくれ、言うたんや。日本で男の子は『太郎』、女の子は『花子』いうのあるわな。それと同じ。キューバで男の子ならチコ、女の子ならチカや」

 外国人自体が珍しい時代ながら、阪急にはそれ以前にも助っ人が加入していた。温かく迎え入れる空気があったと推察できる。一方、セカンドとして二遊間のコミュニケーションはどうだったのか。

「はじめ、ショートは河野旭輝(こうの あきてる)さんで、その後は本屋敷錦吾(もとやしき きんご)ね。野球の会話はだいたい一緒やから困ったことはないよ。ただ、あの頃、ガイジンはボクひとりやった。スペイン語はもちろん、英語しゃべれる選手、誰もおらへんかった。朝から晩まで日本語ばっかり聞いとったわけや。だから、そのうち理解したんとちゃうか? 毎日ずーっと同じ言葉聞いたらな、ある程度、慣れるわな」

 入団から7年間、阪急にはバルボンさん以外の外国人野手がいなかった。日本語に慣れないと仕方がない環境があり、必然的にチームに溶け込むことになったのだ。

「ワタシ、今も日本語うまくないけど、それがなかったらずーっとしゃべれなかったと思うわな。それでも1年目に165安打打って、得点王になって。寒い、寒いって文句言いながら、何とかな」

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最終更新:3/17(火) 14:18
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