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植村隆・元『朝日』記者が「第7回李泳禧賞」受賞 中傷に屈せず闘う姿勢評価

1/17(金) 6:11配信

週刊金曜日

 植村隆『週刊金曜日』発行人(61歳)が韓国で真実の追求に努めたジャーナリストらに贈られる「李泳禧賞」の第7回受賞者に選ばれ、12月4日にソウルで授賞式が開かれた。『朝日新聞』記者時代の1991年8月、旧日本軍の「慰安婦」だった韓国人女性、金学順さん(97年死去)の証言を韓国メディアに先んじて報道。その後、日本国内で一部勢力から「捏造記者」との中傷を受けても屈せず言論の自由を守るために闘う道を選んだことが評価された。

 李泳禧氏(1929~2010年)は、韓国の軍事独裁政権時代に韓国「合同通信」(後の「聯合ニュース」)や『朝鮮日報』でベトナム戦争への韓国軍派遣などを批判し、弾圧を受けた反骨のジャーナリスト。投獄されても信念を曲げず、民主化後の1988年に新しい言論を掲げた『ハンギョレ新聞』が創刊されると論説顧問に就任。韓国の代表的な進歩的知識人として知られる。

 ソウル・光化門のプレスセンターで開かれた授賞式には、日韓のジャーナリストや市民運動関係者ら約130人が出席した。審査委員長の辛仁羚・元梨花女子大学校総長は「彼の闘いと努力は、単に自らの名誉にとどまらず真実を守り、そのために不可欠な言論の自由を守ろうという努力だった」と述べ、審査員7人の満場一致の決定だったと強調。李泳禧財団理事長の白永瑞・延世大学校名誉教授は「(「慰安婦」問題報道に先駆けて取り組んだ姿勢は)自国の歴史の暗部を直視し自己を省察する姿勢であると高く評価できる。そうした意思と姿勢は、自らのあり方を問い続けた李泳禧先生の生き方と一致する」と述べた。

【「私だけの問題ではない」】

 評価の対象となった報道は1991年8月11日付の『朝日新聞』大阪本社版の社会面トップに掲載された「思い出すと今も涙 元朝鮮人従軍慰安婦 戦後半世紀重い口開く」。元「慰安婦」の金学順さんが「韓国挺身隊問題対策協議会」(挺対協)に証言した録音テープをもとに、体験を語る肉声を初めて報じた。金さんは3日後に韓国人元「慰安婦」で初めて実名で記者会見し、「慰安婦」問題が「戦時下の秘史」という扱いから、解決が必要な人権問題として受け止められる転機となった。一方で、金さんの証言は日本政府の謝罪や賠償を要求する運動の契機となったため、日本社会では一部勢力が、捏造した事実を含む記事だとする批判を繰り返してきた。

 とりわけ歴史修正主義の風潮が強まった2014年には『週刊文春』が「“慰安婦捏造”朝日新聞記者がお嬢様女子大教授に」の見出しで植村氏についての記事と「捏造記事と言っても過言ではありません」とする西岡力・麗澤大学客員教授のコメントを掲載。これを契機にインターネット上では植村氏の実名を挙げて「国賊」「反日」などと憎悪をあおる言葉で個人攻撃が繰り返されるようになった。矛先は、植村氏の当時の勤め先である北星学園大学(札幌市)や家族にも向かった。『朝日新聞』は早期退職した植村氏に復職を打診したが、植村氏は「組織のしがらみを受けずに闘う道」を選択。15年、『週刊文春』を発行する文藝春秋や西岡氏を相手に損害賠償などを求める訴訟を提訴。『真実私は「捏造記者」ではない』(岩波書店)を刊行し、法廷と言論を通じた反撃を開始した。

 植村氏は「植村への攻撃は私だけの問題ではない」と考えたことが沈黙しなかった理由と説明。「安倍政権下で(日本政府が元「慰安婦」へのおわびと反省を表明した1993年の)『河野談話』を無力化し、日本の侵略戦争による被害の記憶継承への攻撃が相次いでいる。そうした危険な風潮を変えねばならない」と強調。「今後も一生懸命闘います」と決意を表明すると会場から大きな拍手が起きた。

 植村氏は現在、韓国カトリック大学校招聘(客員)教授も務め、日本ジャーナリスト会議(JCJ)や新聞労連と連携し、ジャーナリスト志望の日韓の学生が合宿しながら取材方法などを学ぶ「日韓学生フォーラム」を主宰。日韓の新聞社やテレビ局で活躍する「教え子」が続々と誕生している。

(柴田肇・ジャーナリスト、2019年12月20日・2020年1月3日合併号)

最終更新:1/17(金) 6:11
週刊金曜日

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