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阿部勇樹がそのプレースピードに驚愕した選手とは?

1/19(日) 11:02配信

GOETHE

阿部勇樹は輝かしい経歴の持ち主だが、自らは「僕は特別なものを持った選手じゃないから」と語る。だからこそ、「指揮官やチームメイトをはじめとした人々との出会いが貴重だった」と。誰と出会ったかということ以上に、その出会いにより、何を学び、どのような糧を得られたのか? それがキャリアを左右する。【阿部勇樹 ~一期一会、僕を形作った人たち~11】。

浦和レッズに移籍したきっかけとは

「アテネ経由ドイツ行き」

アテネ五輪監督だった山本昌邦さんが、常に口にしていた言葉だ。

しかし、アテネ五輪代表で実際に2006年のドイツW杯メンバーに選ばれたのは、駒野友一と茂庭照幸(追加招集)だけだった。

僕自身は、ドイツW杯を戦ったジーコ・ジャパンに何度か選出されている。代表デビューを飾ったのも2005年1月のカザフスタン戦だった。

ジーコ・ジャパンのボランチには、小野伸二さんや稲本潤一さん、遠藤保仁さんといった黄金世代だけでなく、その上の世代、福西崇史さんや中田英寿さんもいて、本当に層が厚かった。その多くの選手が欧州でプレーしている。

トルシエ・ジャパンに招集されたときは「僕がここにいていいのか?」という感じで、びくびくしていただけだった。しかし、ジーコ・ジャパンに呼ばれたときは、Jリーグでもそれなりに自信をつけていたので、先輩たちのプレーを体感する余裕も生まれていた。

「これは違うな」

ヒデさん(中田英寿)といっしょにプレーして驚いた。1本のパスのスピードがまったく違ったのだ。もちろんそこへ至る判断、プレースピードも速い。Jリーグでプレーしている感覚では、遅すぎる。ヒデさんのプレーが欧州のスタンダードなんだと理解した。自分のパススピードではダメだと痛感した。

この感覚はその後、日本代表やイングランド・レスター(当時2部)でも味わった。実際にピッチでプレーしたからこそ得られる情報は、自分の成長にとって非常に有益だったし、いろんなチーム、いろんな選手とプレーすることの重要性を知った。

W杯ドイツ大会のメンバーに入れなかった。

目指すのはその次、2010年の南アフリカ大会へと気持ちは自然と切り替わる。

そしてドイツ大会終了直後、イビチャ・オシムが日本代表監督に就任。代表に選ばれるべき選手にならなくては、オシムの元でプレーできない。新しいモチベーションが加わった。

そして、2007年、僕は浦和レッズへ移籍する。成長するための決断だった。

「初戦で勝利しなければならない」

2010年ワールドカップ南アフリカ大会、初戦カメルーン戦を前にチームはそのことだけに集中していたと思う。このチームには、田中マルクス闘莉王、松井大輔、大久保嘉人、駒野友一、今野泰幸という、2004年のアテネ五輪代表の仲間がいた。初戦に敗れ、グループリーグ敗退という悔しさを抱いた彼らと、再び世界の舞台に立てることは本当に嬉しかった。

自然と「初戦必勝」という想いが南アフリカで強くなったのは、そんなアテネでの経験があったからだと思う。

オシムさんが病に倒れ、岡田武史日本代表監督のもとで、大会に挑んだ。出場権獲得後の代表戦は成績も悪く、壮行試合となった埼玉での韓国戦の敗戦を機に、「堅守速攻」へと戦い方を変更する。DFラインとダブルボランチの間に僕がアンカーとして立ち、システムも変わった。

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最終更新:1/19(日) 11:02
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