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追悼・タフさと勤勉さで球史に残る名二塁手となった高木守道

1/21(火) 6:02配信

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1月17日、昭和の名二塁手、高木守道が死去した。78歳はまだ早いと言わざるを得ない。

期待の若手、根尾昂(中央)。高木守道のような名選手になれるか

高木守道は、1941年7月17日、岐阜市に生まれた。世代的には王貞治、張本勲、板東英二らの1年後輩にあたる。同学年には巨人の5番を打った末次民夫(利光)らがいるが、華々しい活躍をした一つ上の世代に比べれば、やや地味な印象だ。

県立岐阜商の1年生の6月に、立教大学4年生の長嶋茂雄の指導を受ける。当時の東京六大学は、プロ野球を上回る人気があり、有名選手たちは、リーグ戦のないときには有望選手のスカウトを兼ねて全国の有力高校の指導をするのが恒例となっていた。
長嶋も、県立岐阜商の選手たちを指導したが、小柄ながらも機敏な動きの1年生高木に注目し、レギュラーで使うべきだと中野健一部長(元監督)に進言。さらに、遊撃手だったが肩を痛めていたので二塁で使うべきともアドバイスしたという。

高木はこの夏の選手権岐阜県大会から正二塁手となる。県岐阜商は多治見工を1ー0で破って甲子園に出場。津島工、土浦一を下して準々決勝に進むが大宮高校に敗退。
3年時の1959年には春の選抜甲子園に出場し準優勝、その後、地元中日ドラゴンズからオファーがあり入団が決まった。

入団は1960年。5月7日、中日球場での大洋戦に代走で出場し二塁を守った高木に、9回裏にプロ入り初打席が回ってくる。ここで高木は大洋3番手の宮本和佳から左翼へ2ランホームラン。プロ初打席で初本塁打という派手なデビューを飾った。

当時の中日には井上登という二塁手がいた。この年も含め、5回ベストナインに輝き、巨人の千葉茂の引退後、リーグを代表する名二塁手だった。華々しいデビューを飾った高木だったが、井上の壁は厚いと思われた。
しかし、翌1961年、内野手上がりの濃人貴実(渉)が中日監督に就任すると高木の動きの良さに注目。オールスター明けの7月30日に高木をスタメン二塁手に起用。一塁手の江藤慎一を外野に動かして、井上を一塁にコンバートした。
井上は1962年にはトレードで南海に移籍する。その代わりに南海からやってきた日系二世の半田春夫(カールトン半田)が正二塁手となったが、この年、高木は打撃が開眼。打率.280をマークしてシーズン後半から正二塁手となった。21歳になったばかりだった。
以来高木守道は19年の長きにわたって中日の不動の正二塁手として活躍した。

二塁手としての高木は、守備範囲はそれほど広くはなかったが非常に俊敏。バックトスで遊撃手に目にもとまらぬ速さで送球するのが売りだったが、これは引退後、コーチになったカールトン半田とともに編み出したという。半田は「僕よりも彼のほうがうまい」と高木の守備力を高く評価していた。

中日には中利夫という不動のリードオフマンがいた。左打者で三振が少なく、打撃妨害による出塁が21もあるなど曲者的な打者だった。足も速く1960年には盗塁王。
しかし足の速さでは高木守道も負けてはいなかった。1962年の後半から1番中、2番高木のコンビができるが、高木は1963年には快調に盗塁数を増やし、夏以降は1番高木、2番中のケースも増えていく。1963年には50盗塁で盗塁王。盗塁王は3回獲得している。
日本野球では1番打者が出塁し、2番はバントや走者を送る打撃をすると相場が決まっているが、高木は2番でも1番打者のような打撃をし、出塁すれば走った。犠打は少なかった。
中、高木はリーグ屈指の1・2番コンビと言われたが、従来の1・2番コンビとは少し趣が違っていた。

1963年から5年連続でベストナイン。高木はリーグを代表する二塁手となった。

しかし1968年5月28日、後楽園球場での巨人戦に1番二塁で先発した高木は、いきなり1回に巨人先発堀内恒夫の速球を顔面に受けて昏倒。高木は1ヵ月後に復帰したが、調子は上がらずこの年は6年ぶりに規定打席を外れ、83試合の出場にとどまった。

しかし高木は翌1969年には全試合出場。このタフさが高木の何よりの身上だった。

高木は174㎝72㎏と平凡な体格だったが、思い切った打撃もできた。1963年には10本塁打。1969年には24本塁打を記録する。一時期は3番を打つこともあったが、上位を打つことも多かった。いわゆる「大型1番打者」だったのだ。
1974年には中日は、巨人のV10を阻止してセ・リーグ優勝を飾る。ベストナインに加え始めてダイヤモンドグラブ賞も受賞する。

昭和の時代、野手は30代半ばになると急速に衰え、後輩にポジションを譲るのが普通だった。
しかし高木は35歳を過ぎても全く衰えを見せず、若い野手陣のリーダーとしてチームを引っ張った。
1978年4月5日の広島戦で史上11人目の2000本安打達成。中日の生え抜き選手として初めて。また二塁手としても史上初めての快挙だった。

1980年限りで引退。

NPBの二塁手出場試合数5傑は次の通り。

• 高木守道 2179試合
• 山崎裕之 1883試合
• 大石大二郎 1795試合
• 荒木雅博 1687試合
• 基満男 1553試合

NPBで2000試合以上二塁を守ったのは、高木守道だけだ。5227補殺、5333刺殺、1373併殺も史上1位。併殺コンビを組んだ遊撃手は河野旭輝、一枝修平から宇野勝まで、多彩な顔ぶれが並ぶ。

オールスター選出はわずか4回。巨人の選手のような全国的な人気はなかった。監督としては1994年に巨人と球史に残る「10.8決戦」を戦ったが敗れ2位が最高だった。

しかし2006年の殿堂入りは、現役時代の実績を考えれば当然の評価だ。タフさと勤勉さで、高木守道は球史に残る名二塁手となった。

文:広尾 晃(ひろおこう)
1959年大阪市生まれ。立命館大学卒業。コピーライターやプランナー、ライターとして活動。日米の野球記録を取り上げるブログ「野球の記録で話したい」を執筆している。著書に『野球崩壊 深刻化する「野球離れ」を食い止めろ!』『巨人軍の巨人 馬場正平』(ともにイーストプレス)、『球数制限 野球の未来が危ない!』(ビジネス社)など。Number Webでコラム「酒の肴に野球の記録」を執筆、東洋経済オンライン等で執筆活動を展開している。

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最終更新:2/3(月) 11:48
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