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『十二国記』小野不由美の文章はなぜ多くの人を惹きつけるのか? 文芸オタク・三宅香帆が考察

1/21(火) 13:05配信

リアルサウンド

 「私の居場所はどこにあるの?」というのは、少女漫画を論じた批評のタイトル(藤本由香里『私の居場所はどこにあるの? 少女マンガが映す心のかたち 』(朝日文庫/2008年))だったが、畢竟、少女たちに向けた物語――小説や漫画やドラマやその他たくさんの物語たち――というのは、「私の居場所はどこにあるの?」という切実な問いに応えるために存在している。少女漫画や少女小説というジャンルは、彼女たちの問いかけに応え、「あなたの居場所は……」と、素敵な男の子の肯定してくれる教室や、自分を奮い立たせてくれる夢の舞台や、果ては究極の居場所である、異世界、を甘いファンタジーとして提示してきた。

 しかし「私の居場所はどこにあるの?」という問いは、なにも現代の少女たちだけが抱いているわけではない。遥か遠く、およそ千三百年前の中国(唐)で王維が詠んだ「秘書晁監の日本国に還るを送る」においても、「あなたの居場所はここではない、遠い場所だ。私たちは居場所がちがうのだ」と述べる箇所がある。故郷の異なる友に対して、「自分たちの居場所はちがう、だから別れなければならない、寂しい」と呼びかける。そう、自分の居場所をめぐる問いは、実は少女たちの特権ではない。

 そのことを日本中に知らしめているのが、小野不由美の『十二国記』という小説シリーズだ。『十二国記』シリーズの一作『魔性の子』(小野不由美、新潮社)には、前述した「居場所」をめぐる王維の詩が掲載されている。

 しかし一見中華風ファンタジー少女小説の範疇におさめきれそうな『十二国記』は、読者層として少女以外にも熱狂的な支持者を抱える。その理由は、おそらく主題としては少女小説で普遍的であろう「自分の居場所をめぐる問い」を扱いながらも、文体や設定や扱うテーマを、まったく甘ったるくない、厳しい世界観のもとに統一したことだろう。

「もしも天があるなら、それは無謬ではない。実在しない点は過ちを犯さないが、もしも実在するなら、必ず過ちを犯すだろう」
李斎は不思議そうに首を傾ける。
「だが、天が実在しないなら、天が人を救うことなどあるはずがない。天に人を救うことができるのであれば、必ず過ちを犯す」
「それは……どういう……」
「人は自らを救うしかない、ということなんだ――李斎」(『黄昏の岸 暁の天』新潮文庫p390)

 私の居場所はどこにあるの? と問う人々は、その裏でさまざまな期待を寄せる。「居場所を誰かが作ってくれるのではないか」「居場所を誰かと共有できたら、孤独じゃなくなるんじゃないか」。しかし『十二国記』は、結局は「誰かが居場所を提示してくれることも、誰かと一生同じ居場所にいられることも、ない」という痛く厳しい答えを提示する。地図上にない異世界〈十二国〉というファンタジー世界――それはある意味「作者が願えば何でも叶えられる世界」なのに――においてなお、作者は、居場所は自分でつくってゆくしかないことを示す。

 しかもその厳しい答えを導き出すのは、『十二国記』特有の、中国古典を彷彿とさせる異世界の、政治、戦い、貧困、商業といった側面を描いたあとだ。『十二国記』を読んでいると、まるで中国の史書を読んでいるかのように錯覚するが、それはこの小説の「現代の漢文調」とでも言いたくなる文章が理由だろう。だってこのシリーズを少女小説だと舐めてかかった大人のうち、どれほどの人が最初のページをめくるなり背筋を伸ばしたのだろう? 少なくないはずだ。

 少年少女だけにとどまらない読者が、この、居場所についての物語を夢中になって読む。なぜなら、居場所をめぐる問題は、少女だけじゃない、千三百年前の唐代のひとびとでさえ抱いていた不安だから。私たちは、ずっと『十二国記』の、甘さのない答えに支えられる。むやみやたらと孤独を感じたり、だれかと別れて寂しかったりするとき、王維ではないけれど、詩や小説のひとつでも手に取りたくなる。そんな読者に『十二国記』はきっと読まれ続ける。

三宅香帆

最終更新:1/21(火) 13:05
リアルサウンド

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