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「国技」大相撲が戦前から批判されてきた大きな矛盾

1/24(金) 6:00配信

JBpress

 長きにわたり愛され、そして世間から叱られ続けてきた大相撲。相撲はどのようにして「国技のようなもの」となったのか。度重なる不祥事を乗り越えてきた大相撲をどのように捉え、どのようにつきあっていけばいいのか。「スー女」である胎中千鶴氏が大相撲への愛と苦悩を語る。(JBpress)

 (※)本稿は『叱られ、愛され、大相撲!  「国技」と「興行」の100年史』(胎中千鶴著、講談社選書メチエ)より一部抜粋・再編集したものです。

■ 「国技のようなもの」

 あまり知られていないが、大相撲の主催者である公益財団法人日本相撲協会の定款では、協会運営の目的を「太古より五穀豊穣を祈り執り行われた神事(祭事)を起源とし、我が国固有の国技である相撲道の伝統と秩序を維持し継承発展させるため」と明記している。

 そうなると、本場所や巡業なども「国技である相撲道」の継承と発展のためにおこなわれていることになる。ビール片手にやきとりをほおばっている場合ではないのだ。

 相撲に「道」をつけて「相撲道」と称するのであれば、「国技」に邁進する者たちには、「武士道」を連想させるような真剣な態度が求められる。なかでも実践者の頂点に立つ横綱は、単なる興行団体の稼ぎ頭やスポーツ選手とは異なる立場なのだから、土俵上でも私生活でも品性高潔でなくてはダメ、という理屈になる。

 近年目にする「横綱の品格」とやらも、このような「国技」の枠組みから生じたものといえよう。

 とはいえ、「国技」という定義はあくまで協会がうたっているだけで、相撲が日本の国技であると規定する明確な根拠は見当たらない。日章旗や「君が代」は法律で国旗・国歌に定められているが、国技にはそれがないのだ。

 つまり、「国技のようなもの」というもやもやした認識を、日本人がメディアを介してなんとなく共有している、というのが実際のところだろう。

■ 一人横綱の支え

 この「国技のようなもの」をめぐる議論が近年もっとも沸騰したのは、多数の外国人が角界に入門し、上位に進出しはじめた2000年代後半である。

 朝青龍ら外国出身力士の素行が問題視され、「国技の危機」として警戒する論調が高まった。メディアがさかんに「伝統」や「神事」を語ることに、どこか排他的な空気を感じた方もいるだろう。

 2010年(平成22)、朝青龍が引退した。10月の断髪式を終えた彼は「生まれ変わったら、大和魂を持った日本人横綱になりたい」と、痛烈な皮肉とも受け取れるコメントを残して日本を去った。

 あれから9年が経つ。その間に大相撲界は、2011年の大規模な八百長行為の発覚で存立そのものが危ぶまれる事態を迎え、それをモンゴル出身の白鵬が一人横綱として必死に支え続けた。

 ことあるごとに自身の目標として、伝説の横綱双葉山や大鵬の名を挙げ、過剰なほどに日本的な力士としてふるまおうとした当時の彼の姿を、心にとめておきたい。

 その後も外国出身力士の活躍が続いたせいか、「相撲=国技」という世間の固定観念は以前に比べて薄らぎつつあるようにもみえる。だが、稀勢の里や貴景勝などの「日本出身力士」にメディアが過剰に注目したり、横綱を特別視して「国技にふさわしい品格」を求めたりする風潮は、いまだに根強く存在する。

■ 国技館の誕生とピンチ

 1954年9月、満を持して蔵前国技館が完成した。総工費2億3千万円、1万1千人収容の大型施設である。

 新しい国技館の誕生は、協会にとって新時代の幕開けともいえるが、追い風になったのはそれだけではない。前年の1953年5月場所から始まったテレビ中継こそが、その後の大相撲人気を盤石なものにしたといえる。同年5月にNHK、続けて9月以降は民放各社も放映を開始した。家族そろって茶の間で観戦する「テレビ桟敷」が可能になったのである。

 そして1955年5月、協会関係者にとって最強のサポーターともいうべき昭和天皇が国技館を訪れた。戦後初の天覧相撲である。8年半の全国行幸を終え、心おきなく大相撲を楽しめるようになった天皇が、その後足繁く国技館に通い続けた。

 こうして戦後の大相撲は、国技館という大舞台と、その貴賓席に頻繁に登場する天皇の存在によって、他の娯楽・スポーツと一線を画す「国技」としてのステイタスを再び手に入れたのだった。

 しかし、ホッとしたのもつかの間、1957年春、協会は戦後最大のピンチに直面した。衆議院予算委員会と文教委員会で、財団法人としての大日本相撲協会のありかたや財政面の問題点を指摘されたのである。

 同年3月2日に、日本社会党の辻原弘市議員が灘尾弘吉文部大臣に協会の営利化を指摘、マスコミもこの問題を一斉に報じることとなった。

 『回顧録』によると、武蔵川のところには知人の社会党代議士から事前に連絡が入っており、「ドンブリ勘定ではないか」「営利主義に走り過ぎている」などの世評を受けて辻原らが動き出したことを承知していた。

 一報を聞いた彼は、「何をいってるのだろう」「他人からケチをつけられるようなことは毛頭ない」と思ったという。

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最終更新:1/24(金) 6:00
JBpress

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