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日本人の多くが知らない ダグラス・マッカーサー元帥の実像

1/26(日) 7:20配信

ナショナル ジオグラフィック日本版

 ダグラス・マッカーサーは、実に多くの顔を持った人物だった。それは彼の経歴によく現れている。第一次世界大戦には最年少の戦闘司令官として参加し、フランスでの戦功によって、米陸軍の名誉勲章の次位となる殊勲十字章2つと銀星章7つを受勲した。その後、最年少で陸軍士官学校の校長に、米軍の参謀総長にも最年少で就任している。その武勇と軍への奉仕により、マッカーサーは米国史上、4人しかいない「5つ星元帥」の一人となった。

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 マッカーサーの人となりについては毀誉褒貶(きよほうへん)がある。献身的、革新的、礼儀正しい、チャーミング、聡明、大胆といった肯定的な言葉もあれば、傲慢、変わり者、気難しい、派手好き、横柄と表現されることもあった。この評価は、軍でもプライベートでも変わらなかった。

 マッカーサーは軍人でありながら、人を殺すことを嫌っていた。戦闘では一切の手加減をしなかったが、部下の安全を守ることに関しては手を尽くしたことが知られている。人をまとめる才があり、仲裁人としても有能という評もある。まさに占領下の日本での、マッカーサーの働きがそうだ。

 優れた陸軍工兵として語られることが多いマッカーサーだが、古代史、近代史、経済学、地政学、文学、聖書に関する造詣も深かった。時間のある夜には、決まって映画を見に行った。また奇妙な習慣を持っていたことも伝えられている。なんと、壮絶なニューギニア戦の最中に、密林に設置された即席の司令部をピンクのキモノを着て歩き回り、トレードマークのコーンパイプをふかした、山ほどレタスを届けさせては丸ごとかじりついていたというのだ。

 このように、マッカーサーは一言では語れない人物だ。生い立ちを知れば、彼の多面性を説明するヒントが見つかる。

生まれながらの軍人

 ダグラス・マッカーサーは、1880年、米アーカンソー州フォートドッジに生まれた。父親のアーサー・マッカーサー・ジュニアは、南北戦争で栄誉章を受章した陸軍大尉。生涯軍人であり続けようとした人で、マッカーサーも幼少期の大半を、西部各地にある陸軍基地で過ごした。異動のたびに、より辺境にある基地を移ったようだ。

 マッカーサーの幼いころの記憶は、メキシコ国境にあるフォートセルデンで、アパッチ族の一団が壁の向こうから火矢を放つところを見たことだという。また彼は、読み書きを覚えるよりも前に、乗馬と射撃を覚えた。記憶に残る一番古い音は、駐屯地で鳴るラッパだという。暑さ、寒さ、埃、ときおり訪れる嵐や鉄砲水、ガラガラヘビ、ドクトカゲなど、普通の人なら、辟易するような環境のなか、幼いマッカーサーは生き生きと日々を送っていた。

 母親のマリー・マッカーサーは、バージニア州の古い家系の出身だった(兄弟のうち3人は南部連合の将校だった)。マリーの教育はマッカーサーに、道義的な義務感を強く植え付けた。「どれだけ個人的な犠牲を払おうとも、正しいことをせよ、と教えられた」。マッカーサーは後に、回顧録にそう記している。「常に優先すべきは国だった。『嘘をつくこと』『告げ口』は、決してしてはならないと教育された」

 父親が軍人だったために、マッカーサーの家族は頻繁に居を移した。その結果、彼は環境の違う様々な人々と出会うことになった。1886年にマッカーサーが小学校に入るのと時を同じくして、父親はカンザス州フォートレブンワースの歩兵騎兵学校に転任している。

 西部の砂漠を駆け回りながら育った少年のマッカーサーは、規律正しい学校に通う心構えができておらず、本人の弁によると、クラスにはうまく馴染めなかった。10歳のときに父親が、著名な連邦判事である祖父のアーサー・マッカーサーもいるワシントンDCに転任になったことで、新たな世界が開けた。素朴な少年は、この米国の首都で華やかな社会を知り、周りの大人たちが交わす言葉を耳にする中で、当時行われていた政治的、社会的、財政的な陰謀の断片にも触れた。

 父親の次の転任では、13歳のマッカーサーはテキサス州サンアントニオのフォートサムヒューストン近くにある西テキサス士官学校に移り、そこで彼の世界は「知識を切望し、理由を探求し、真実を追い求める」ことによって、大いに広がった。ここでの日々はマッカーサーにとって、人生で最も幸福な時代だった。古代の詩人ホメロスとウェルギリウスをラテン語で学び、『イーリアス』と『アエネーイス』を翻訳した。学術優秀賞を獲得し、さらにはフットボールや野球などのスポーツも嗜んだ。

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