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町田康「人間って自分を乗り越える方法はそんなにたくさんない」 音楽と日本語、そして酒を呑むことのつらさ

1/26(日) 8:06配信

リアルサウンド

 町田康、新作エッセイ『しらふで生きる』インタビューの後編。前編では著書『しらふで生きる』の話を中心に、文学的な酩酊や原因と結果の連鎖などについて語ってもらった。後編では前回で少しだけ触れた音楽のことや、日本語と歌詞の関係性、そして酩酊したことで書けた作品はあるのか?などさらに深掘りした内容となった。(編集部)

【写真】町田康が語る、酒を断って見出した“文学的酩酊” 「日常として忘れていく酩酊感が読者に伝わったら面白い」


■音楽は日本語を表現したいからやっている

――『しらふで生きる』には折口信夫の話が出てきます。町田さんが小説を書くときの感覚も、折口的なライブ感覚に近いんですかね。折口もドラッギーな人でした。

町田:あんな偉い先生と比べるべくもないですけど(笑)。直感的な古代人の魂が降りてくるみたいな? まあ、そこまでじゃないにしても、大伴旅人の酒の歌について書きましたが、いまの人と時代は離れていますが、人間の変わらない気持ちは昔の歌にも感じますよね。無遊状態で筆先みたいにして書いているんですかね(笑)? 自分で書いているところを動画撮って見たらわかるかもしれないですけど、書いているときは集中して書いていますから、自分がどんな感じなのかわかりませんね。人とも比べられませんし。他の人がどんな感じで書いているかもわかりませんし。

――葛西善蔵という大正期の小説家がいます。葛西は流しのヴァイオリン弾きをしていたという話もありますが、やはり二日酔いで書けないときなどは、民謡の言葉などを引用しながら書き継いだりします。

町田:なるほど。散文を書きながらも詩的な直感みたいなものに行くんですね。

――『しらふで生きる』を読みながら、葛西善蔵のことも思い出しました。

町田:そういう読み方をする人はちょっと珍しいですね(笑)。

――一般的には、どのように読まれているんでしょうか。

町田:この本は思考の過程を細かく書いています。小説でそこまで細かくすると、多くの読者は読むがダルいと放棄しちゃう場合が多いんですけど、酒のことになるとみんな興味があってわりと付き合ってくださる。「面白く読んだ」という人が多い。あと、最近はツイッターとかで反応が見られるんだけど、「呑みながら読んだらけっこう楽しかった」っていう人がいましたね。あと、担当編集者はライブのときに、ビールを呑みながらこの本を売っていました(笑)。まあ、酒やめマニュアル本ではないということですね。最初はマニュアル本のほうに寄せたタイトル候補もあったんですけど、最終的に話し合っていくうちに、「マニュアル本じゃないよね」ということになりました。けっこうギリギリまで考えました。

――そうなんですね。お酒をやめさせるということよりはむしろ、酩酊感を大事にされているということですか。

町田:音楽もある程度意識が飛ぶというか、気持ちが変容するということがないと聴かないじゃないですか。良い気持ちになるとか、メランコリックな気持ちになるとか。感情の動きがあるから音楽を聴くわけでしょう。だから、なにもないものを読んでもどうなんだろうと思いますね。もちろん、なにもない文章でしかあらわせないものもあるんでしょうけど。

――そういう意味では、音楽も小説も差を設けていないということでしょうか。

町田:その点ではそうですね。ただ、音楽の側から言うと、いわゆるミュージシャンとはちょっと違う歌いかたをしている可能性があります。他の歌手の人と詳しく話したことがないからわからないんですけど、ミュージシャンの人ってやっぱり節(ふし)を歌っているんですよ。メロディを歌って、リズムを表現し、ハーモニーを表現しているんですよ。僕は――昨日もライヴをやったんですけど――しばらくやるうちに、はたしてそうなのかという気がしてきました。なにか言葉を表現しているのではないか。意味とか内容とかでは決してないのだけど、やっぱり日本語を言いたいんじゃないかという気がするんですよ。だから、英語で歌うこととかまったく興味がないんですよ。やっぱり、日本語を表現したいからやっているんじゃないか。それは、もともと好きだった河内音頭とか浪曲とか、あるいはもっと古い説教節とか、あるいはもっと古い平家物語とか、そういう系譜の果てなのかなと思います。だから、俺はいわゆるミュージシャンではないな、という気がします。

――〈語り〉ということですね。言葉を通して異世界を出現させる。

町田:そうですね。でも、ただの朗読ではなくて節がついて伴奏がついている。

――そういう系譜で言うと、語っている主体は空っぽであると言われますが。

町田:そっちに話を持っていこうとするね(笑)。

――いやいや、すみません(笑)。また折口的な話になってしまいますが、歌っているときもそのような感覚があるんですか。

町田:もともとはロックとか聴いて、かっこいいなと思って、自分もやってみたいなと思ったんだけど、長くやってみると日本語がやりたかったんだなと思いました。ここまでは確実に言える。まあ、わからないですけどね。日本語で歌詞を書いているうちに、それに興味が出てきたというだけの話かもしれませんけど。ただ、たしかに気持ちいいメロディを気持ちよく歌ったら気持ちいいけど、それだけだとつまらないかな。そんな上手にできないしね。上手にできたら気持ちいいかもしれないけど、それはもう、上手に楽器を弾くことと変わらない気がする。

――そのような意識はINUなど活動の初期からあったんですか。

町田:ないですね。この2年くらいです。というのは、決められたメロディがあっても音程を間違えてしまうんですよ。作曲した人にピッチが合わないと言われてしまう。それは、もともともらった節が難しくて自分が技術的に歌えない、ということもあるんですけど、それ以外に、簡単でも歌えないということがあるんですよ。なんでだろうと考えると、やっぱり日本語の抑揚なんですよ。自分が書いた日本語の抑揚に、知らないあいだに寄せて行ってしまうんですよ。日本語の抑揚にも微妙に高低がありますから、そのメロディに合わない歌詞を書いたら、頭ではメロディがわかっていても、やはり声に出すと日本語に寄せて行ってしまっているんですよ。そうすると、やっぱり日本語をやりたいんだと思うんですよね。

――新しいバンドの「汝、我らの民に非ズ」は、いままで一緒にやってきた人たちとは違う人たちで組んだバンドなんですよね。

町田:昔から音楽が好きな人や音楽が上手な人は音楽をずっとやっていて、それはひとつの流れとしてあったんです。でも、僕がいたところというのはパンクとかロックとかで、音楽というより生きかたとか物の考えかたとかカウンターカルチャーでした。ある種の社会運動のようで音楽命みたいな感じじゃなかったです。いま、一緒にやっているのはみんな音楽の人で、少し毛色が違うんですよ。面白いですけどね。僕はどっちが良くてどっちが悪いとか、どうあるべきかとかは思わないです。ロックとか自分がいた世界は、いまから考えれば、ロックという名の演劇をやっていただけに過ぎないという気持ちがあります(笑)。それを楽しむ人もいますし。ただ、演劇をやっているのなら、演劇だとわかってやっていたほうがより楽しいだろうと思います。演劇を本当だと思って、映画のスクリーンに怒っていたら、それはバカみたいな話ですから。

――INUのときとかはカウンターという意識があったんですか。あるいは、アルケミーあたりのときとか。

町田:INUとアルケミーってかなり時代が違いますから、空気感が微妙に違うかな……って誰がわかんねん、この話(笑)! 僕らがというより、時代全体がそんな感じでしたね。いま若い人に言ってもなかなかわからないかもしれませんけど。その尻尾というか残滓というか。時代って急に新しいものが生まれてくるわけじゃなくて、いま最先端と思われている音楽もずっとつながっていますからね。さっきの原因と結果の細かい連鎖と同じように、すべてつながっています。誰かのネタをいいなと思ってなにかをやった、それを見ていいなと思った人がまたなにかをやった、それを見て……といった感じで、細い糸だけどつながっていますから。その綱が細いか/太いか、しっかりしたものなのか/みんな忘れちゃったものなのか、というのはけっこう大きくて、そういう意味では空虚だなと思うことは思います。まあ、僕が言っているのは狭い世界の話なんですけど。


■俺は絶対に間違っているという自信がある

――本の話に戻りますが、呑んで酩酊したさきに書けたこととかあるんですか。

町田:書くときは、あまりなかったかもしれませんね。友だちと呑んでて、なにか自分が言ったことがその場ではあまり話題にならなかったけど、そのことを覚えていてあとで小説に書いた、ということはありましたけどね。『ギャオスの話』という短編は、そんなふうにして書きましたね。ただ、酔っぱらってドラッグ体験のような感じで「神を見た!」とか、そういうのはないと思います。昔はヒロポンとか売ってましたから、あの時代の人たち――坂口安吾とか織田作之助とか――はひと晩で短編30枚で書いたとか、そういう感じだったらしいですけどね。いまは、そういう人はいないんじゃないですかね。覚せい剤を注射した勢いで書くとか。いても言えないよね(笑)。中島らもさんとか。

――中島らもについては、町田さんが追悼の記事で「日本酒を瓶から直に呑みながら、次回作の構想を語ってくれた」と書いていますよね。

町田:自分を乗り越えたかったんでしょうね。自分の普段の発想とか意識とかを乗り越えて、なにかになりたかったんだと思うんですよね。

――町田さんの場合は、お酒を呑んでいることが常態化していた?

町田:越えられないんでしょうね。でも、人間って自分を乗り越える方法はそんなにたくさんないんですよ。越えたとしても瞬間で、ずっと越えてるのは無理だと思うんですよ。だから越えられないんだけど、でも、酒によって我を無くすというのがあるんですよね。自我を滅却する。でも、そのとき「本当に自我を滅却していますか?」と言ったら、あまり滅却していないと思うんですよ。つまり、酒を呑んで自我を滅却するどころか自我を増幅している。普通だったら遠慮深い人が、酒を呑んだら増長するみたいな。だから結局、酒に酔うのも怖いけど自分にも酔っちゃう。俺なんか自分がそうだったからわかるけど、「俺はすごい」とか人に言ったらバカみたいじゃないですか。しらふで言うてたら、どう考えてもバカみたいじゃないですか。でも、酒呑んでるおっさんとか、自分含めて見ていると、自慢というか自分の話ばっかするし。みんな自分の話したいんですよ、「みんな聞いて聞いて!」みたいな(笑)。すごいと言われたいっていう気持ちが自我としてあって、それを滅却したい、それを乗り越えたい、そんな醜い自我を意識を変えたら越えられるんじゃなくて酒を呑む。それで良い場合もあるんですよ。気の合う友だちと一緒に話して、ギャグ言ってゲラゲラ笑って、そこにすぽっとハマれば良いですよ。でも魔境に入ると、自分の話ばかりして、まわりはバカバカしいから聞かないじゃないですか。そしたら怒り出しちゃったりして(笑)。そういう作用があって、それはつらいですよ。そういうつらさも酒にはあるから。でも、それは酒のつらさじゃなくて、人間の存在のつらさというか自分のつらさなんですよ。

――もともと抱えているものが酒によって増幅されるんですね。

町田:麻痺して酔っちゃうんですね。抑制がなくなっちゃう。だから、そのときは気持ちいいかもしれないけど、あとで後悔するじゃないですか。そのときの気持ちよさとあとの後悔を比べたとき、後悔したり失ったりする人間的信用とか自己嫌悪感とか、そのときの費用とか時間とか、あとは健康とか考えると「やめたほうが得じゃない?」って(笑)。

――それが4年後の実感ですか?

町田:損得で利益を比べたとき、明らかに損のほうが大きいよなとか。あるいは、快楽とはなんだろうと考えたとき、100億円借りてきて99億円の快楽を得たとしたら、その99億円の快楽はすごい快楽だけど、マイナス1億円の苦しみを背負わなければいけないじゃないですか。1億の苦しみってすごい大変ですよ。じゃあ、10円の自己資金で11円の楽しみを得る。でも、1円の儲け(笑)。とか、そんなことを考えました。だから、人間は事業を拡大しなくていいんじゃない? ロクなことにならないよという気はしました。

――最後のほうなんか人間の存在に迫る話でしたよね。一方で、時事ネタっぽい部分もありました。例えば、「私たちは不当に権利を奪われたのではなくて~」というのがそれに当たるのですが、個人的にはこういう言葉が妙に胸に響きました。

町田:世の中には権利を奪っているヤツもいたんじゃないですか。俺、家族のカードでよくわからない手続きをしちゃったみたいで、リボルビング払いになっていたんですよ。それで、見たら年利18パーセントとかになっていて、解除したくてもすごく複雑な手続きをしなければいけない。これは20年前の話だからいまはそんなことないかもしれないけど、これってひどい話じゃないですか(笑)。だから、いま過払い金のCMとかよくラジオでやっていますが、みんなそういうことに敏感になっているのかもしれない。弁護士が来て「あなたの権利は侵害されているんですよ!」って煽られたら、「そうか」って実際に過払い金が返ってきたりもして。だから、そんなことは世の中にはあるんじゃないですか。でも、まあ知らぬが仏ということも言えますからね。

――先ほどの部分に限らず、文章を書くときに現代の社会に対する考えのようなものは入れるんですか。たまにネタのようなかたちで書かれていることがあって、それが一周まわってグッと来たりもするのですが。

町田:ときどき入れているんですけどね。スタンスはいくつかあります。デリケートな問題もありますから難しいんですけど。なにか思うことがあっても、なるべくなにかの側に立って意見を言うことはしないようにしているんです。なぜかと言うと、ひとつあるのは、俺は絶対に間違っている自信がある(笑)。俺が考えることは絶対に間違っているから、俺の意見が通ったりしたら大変なことになる! だから、あまり言わないようにしようというのがあります(笑)。

――素晴らしいですね。いまの発言もすごくグッときます。

町田:間違っている自信というのも変な自信なんですけど(笑)。

――やっぱりこの本を読んで、すんなりとお酒がやめられるかはわからないですね。二日酔いで無駄にしたなという日もあります。

町田:体が動かないですよね。あと、良いネタを持っていたとき、二日酔いの状態で書いたらもったいないと思うときもありますよね。すごく面白いことを書こうとしているんだけど、この働かない状態で書いたらつまんなくなっちゃうんじゃないかって。ちょっと休んでからやろうと思うと、結局休んでいるほうがラクだからずっと休んじゃうんですよ。それでYouTubeでコントとか観たり(笑)。

――二日酔い的なことも含めて、言葉を書くときに身体的なコンディションなども気になりますか。

町田:お酒をやめたら一回に書く分量が多くなりましたね。ここまで書いたら終わろうというのがあるんですけど、お酒を呑んでいたときは粘りが効かなくて、「ノルマまで行ったから今日はここまで」とかやっていたんですけど、いまは「ここでやめたら次に書くときの立ち上がりが悪いからもうちょっと先まで行っておこう」と続けて、気がついたらけっこう長くなったりします。生産高? 獲れ高? なんて言うんですか? 漁獲高? 枚数? それが多くなっていく感じがします。だから、体力は大事ですね。40代後半くらいまではまだ良いですけど、それ以上になってくると体がね。でも、年上の先輩なんかは「60代なんか元気だったね。70歳過ぎてからダメになってくるね」とか言っていましたけどね。だから、もしかしたら70代から考えると、いまは元気なのかもしれないですね。60代なんて全然普通だったみたいですよ。でも、その人が標準かわかりませんが。すごい元気な人なのかもしれない。大江健三郎さんと対談したときは40代前半だったんですけど、大江さんに「あなたまだ若いでしょ、50代でしょ」と言われて、「そうか、50代はまだ若いんだ」と思いました(笑)。

――音楽をかけながら書くんですか。

町田:音楽は気が散るからあまりかけないですね。音楽自体はあまり興味がなくなりましたね。自分がやるのはいいけど、聴いても全部良いに決まっているから聴いても聴かなくても一緒というか。

――最後に読者に向けてお願いします。

町田:『しらふで生きる』は別に酒をやめろと勧めている本ではないので、これを読んで酒をやめるもよし、楽しく呑むもよし。ひとつ、こういうヤツもいたということですね。人の体験ってあまり細かくは聞かないでしょう。もし言うことがあったとしても、ある程度ウケを狙って――ウケというのは笑わせようということではなくて、人格的に良いように思われようと話を作っていくじゃないですか。そういうことは一切やってませんから。そのときに思ったことを嘘を入れずに、人間が思うことをそのまま書いていますから。たぶんあまり他に例がないと思うので、そのへんを読んでくれると面白いかなと思います。
(写真=高橋慶佑)

■町田康(まちだ こう)
1962年大阪府生まれ。町田町蔵の名で歌手活動を始め、1981年パンクバンド「INU」の『メシ喰うな!』でレコードデビュー。俳優としても活躍する。1996年、初の小説『くっすん大黒』を発表、同作は翌1997年Bunkamuraドゥマゴ文学賞・野間新人文芸賞を受賞した。以降、2000年『きれぎれ』で芥川賞、2001年詩集『土間の四十八滝』で萩原朔太郎賞、2002年『権現の踊り子』で川端康成文学賞、2005年『告白』で谷崎潤一郎賞、2008年『宿屋めぐり』で野間文芸賞を受賞。他に『夫婦茶碗』『浄土』『ギケイキ』『湖畔の愛』『ホサナ』『スピンク日記』『餓鬼道巡行』『リフォームの爆発』など著書多数。

矢野利裕

最終更新:1/26(日) 8:06
リアルサウンド

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