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一休宗純:アニメのイメージを覆す風狂僧

1/27(月) 15:36配信

nippon.com

矢内 一磨

テレビアニメによって海外でも有名な一休。頓知小僧のイメージが強いが、実像は形骸化した当時の仏教界を厳しく批判した反骨の高僧だった。

一休宗純(1394~1481)は、臨済宗大徳寺派の禅僧である。一休さんと言った方が、通りがよいだろうか。「屏風(びょうぶ)の虎」「このはしわたるべからず」などの頓知話で知られ、日本においておそらく最も有名な僧侶の一人であろう。さまざまな難問を頓知で乗り切る一休の活躍は、江戸時代から「一休はなし」として流布し、親しまれてきた。

現在50歳前後の日本人の中には、1975年10月から82年6月まで放映された東映動画(現・東映アニメーション)制作のテレビアニメ「一休さん」を見て育った者が多い。全296話が放映されたが、お寺で小僧修行をしている一休さんが頓知をひねり出す時に指で頭をなでて座禅を組む仕草、ぽくぽくという木魚を叩くような効果音、ひらめいた時のチーンという仏具の鈴(りん)のような効果音などアニメ独自の演出が見られた。頓知を駆使して将軍でさえも圧倒し、縦横無尽の大活躍をする一方で、別れた母上を恋しがる小坊主一休さんの姿は印象的であった。

このアニメは幾度も再放送され、世代を超えて一休ファンを増やしていった。中国大陸でも放映され、瞬く間に中国の子どもたちの心を捉えた。テレビから流れる日本語のアニメソングを覚えようと必死に練習した子どもたちも多かったと聞く。タイやイランなどでも人気が高いという。このアニメ作品が、現在の一休像に与えた影響は極めて大きい。

悟りを開いた僧に与えられる証書を拒否

こうして日中の子どもの心を捉えた一休さんであるが、その歴史的な実像はテレビアニメとは大きく異なっている。享年88。15世紀にあっては驚異的な長い生涯を送った人物である。その全てを振り返ることはとてもできないが、いくつかのエピソードを紹介しながら、一休宗純の実像を探っていこう。

南北朝の内乱が終わって間もない1394年正月元日。南朝の一族を母に京の民家で一人の男児が誕生した。その男児は時の帝(みかど)である後小松天皇の皇胤(こういん)で、千菊丸(せんぎくまる)と名付けられた。後の一休である。南北朝統一を成し遂げた足利義満は北朝を重視していた。南朝系の女性が母である一休は、政治的に利用されることを懸念され、わずか6歳で母の下から引き離された。そして禅寺である安国寺(あんこくじ)で小坊主となり、世俗を離れた生活を送ることになる。テレビアニメの舞台になったのは、この時期のことである。

その後、修行を積み、巧みな漢詩文を詠むなど優れた才能を発揮する。しかしながら、家柄を自慢し合う僧たちの会話に憤り、耳をおおってその場を立つなど潔癖なまでの生真面目さがあった。17歳で西金寺(さいこんじ)の謙翁宗為(けんおう・そうい)に弟子入り。謙翁からは、宗純の名を与えられた。清貧を貫く在野の禅を修めるにつれて、その真摯(しんし)な姿勢は一層厳しさを増していった。

21歳で謙翁と死別した一休は目標を見失い琵琶湖に身を投げ、自死しようとする。それを母の使者に止められた一休は、近江堅田・祥瑞庵(しょうずいあん)の華叟宗曇(かそう・そうどん)に入門する。華叟からは一休の名を与えられている。修行中の一休は琵琶湖を渡る爽やかな風の中で、暁の鴉(からす)の声を聞いた時、ついに悟りを開くことができた。

悟りを開いた後も修行を怠ることはなかった。悟りを開いた僧に与えられる印可と呼ばれる証書も拒否した。師匠の華叟が腰を痛めて病床にあった時も、用便の世話を他の弟子は竹べらを用いたが、一休は師匠の汚れを嫌うことはないと素手で行った。風変わりな男であるが、華叟も自らの法を嗣(つ)ぐ者として認めていた。敬愛する華叟の没後は堅田を離れ、各地を巡遊するようになる。

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最終更新:1/27(月) 15:36
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