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マツダ「ロードスター」2代目ヒットも、開発主査は52歳で「肩たたき」

2/11(火) 6:11配信

NIKKEI STYLE

《連載》仕事人秘録 元マツダ「ロードスター」開発主査 貴島孝雄氏(7)

自動車メーカーのマツダに籍を置き、二人乗り小型オープンカー「ロードスター」の開発主査を務めた貴島孝雄(きじま・たかお)氏は、スポーツカーの世界では伝説的なエンジニアです。マツダを定年退職後、現在は山陽小野田市立山口東京理科大学の教授を務めています。貴島氏の「仕事人秘録」第7回では、2代目ロードスターの開発ストーリーを語ります。

■熱狂を直接体験できず

初代ロードスターは1989年2月、米シカゴ自動車ショーで「MX―5ミアータ」の名前でデビューした。国内発売の同年9月には予約が殺到した。競合車不在のなか、新たな市場を切り開いた。

新型車を発売すると、開発担当者は世界各地で開かれる発表会や試乗会に同行する。自動車ジャーナリストらに感想を聞き、次の開発の参考にすることもある。しかし私は2年後の91年に発売を予定していたスポーツカー、3代目「RX―7」の開発主査を兼任していた。世界中で話題を集めた初代ロードスターの発表会に同行できず、人気や熱狂を直接体験できなかったことが悔やまれる。

南極観測越冬隊の隊長で、真空管を開発した技術者でもある西堀栄三郎氏は「ポジティブ・フィードバック(前向きな結果)」という言葉で成功体験の重要性を説いている。うまくいったことはもう一度やりたいと思うのが人間だ。そのためには成功を味わわなければいけない。

95年に平井敏彦開発主査が退職し、ロードスターの主査を引き継ぐことになった。RX―7の主査も務めていたが、RX―7は生産見直しの対象だったため、兼任できるだろうということになった。

■「悪いくじを引いた」

「悪いくじを引いた」と思った。初代ロードスターの人気は熱狂的だった。その人気を2代目が上回るのは難しい。せめて初代の8割程度は売りたいと思った。2代目は初代の車両設計のままで衝突安全や排ガスなどの規制をクリアできた。初代の遺産を生かし、極端に言えばデザインを変えただけだった。

そのデザインも自分の思い通りにはならなかった。私が知らない間に米フォード・モーターから来ていた開発担当役員が、米現地法人にデザイン案の作成を指示していたのだ。どの役員も任期中に発売されるクルマには関心が強い。

米国案を見たら筋肉質なデザインで、これはまずいと思った。米国人好みのクルマは日本や欧州では受け入れられないことが多い。ロードスターは世界共通のデザインで、日欧でも売れなければいけない。

そこで欧州の現地法人と広島本社にもデザイン案を発注し、競合させた。しかし米国は販売台数が最も多く、発言権が強い。最終的に米国案に決まってしまった。デザイナーに初代のサイズを絶対に超えてはいけないと指示し、小型軽量は死守した。

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最終更新:2/17(月) 13:45
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