ここから本文です

翻訳家が貪り読んだ、井上靖文学の真髄を味わえる自伝的小説3選

2/11(火) 8:00配信

Book Bang

 自伝小説の傑作という評判はずいぶん早くから聞いていたのだが、『しろばんば』というタイトルにいま一つ馴染めずに敬遠していた。が、あるときふと読みはじめて目を瞠った。こんなに面白い小説だったのか! 目から鱗の思いで貪り読んだことを覚えている。

 舞台は大正初期の伊豆湯ヶ島。作者の分身である洪作少年は、天城山麓のこの素朴な山村の土蔵で、おぬい婆さんと暮らしている。おぬい婆さんは実の祖母ではなく、村の名士だった洪作の曾祖父に囲われていた女性だ。

 この作品、まず異彩を放っているのはこのおぬい婆さんだろう。血の繋がりのない洪作少年を、おぬい婆さんは溺愛する。何があろうと“洪ちゃ”にまさる子供はいない、と日頃から村中に触れまわっていて、その、人を食った、独特の毒を含んだ言動にはつい笑ってしまう。たとえば――学級の成績で常に一番の洪作が初めてその座を光一という少年に譲ったことが通知表でわかったとき、おぬい婆さんは憤慨してこう言い放つのだ――「ふざけた真似をするにも程がある。坊が温和しいと思って、坊をさしおいて光一を一番にしおった! 大方泥棒でもして金廻りがよくなった木樵の子ずら。坊、ここに居な。婆ちゃが学校へ行って文句言って来てやる」

 この婆ちゃの盲愛ぶりに、ときに戸惑いながらも、洪作少年はすくすくとおおらかに育ってゆく。遊び仲間の悪童たちとの日々の明け暮れが実に細やかに、興趣豊かに描き込まれてゆく。そして、そうした明け暮れを貫く柔らかな一本の糸のように、本家で暮らす、母の妹の、さき子叔母に寄せる洪作の仄かな慕情が点綴されていくさまが微笑ましい。

 さすがだと思うのは、洪作をめぐる多彩な登場人物の描写の秀逸なこと。本家の曾祖母や祖母、小学校長をしている伯父夫婦など、それぞれに訛りのある口調が微妙に使い分けられていて、容姿や所作の違いまでが、ありありと眼前に浮かんでくるのには唸らされてしまう。

1/2ページ

最終更新:2/11(火) 8:00
Book Bang

こんな記事も読まれています

あなたにおすすめの記事

Yahoo! JAPAN 特設ページ