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小早川秀秋、脇坂安治、小川祐忠~関ヶ原「裏切り者」たちの思惑

2/13(木) 12:13配信

PHP Online 衆知(歴史街道)

関ケ原合戦の「裏切り者」といえば、小早川秀秋が知られるが、脇坂安治、小川祐忠、朽木元綱、赤座直保、吉川広家も、東軍への内応者とされる。なぜ、彼らは西軍から東軍へと鞍替えしたのか。それぞれの胸中に迫っていくと、その決断の舞台裏が浮かび上がってくる。

鷹橋忍
昭和41年(1966)、神奈川県生まれ。洋の東西を問わず古代史・中世史の文献について研究している。著書に『城の戦国史』『滅亡から読み解く日本史』などがある。

キーマンとなった小早川秀秋

小早川秀秋は、秀吉の正室・高台院(北政所)の実兄である木下家定の五男と言われる。幼い頃から秀吉の養子として、高台院のもとで養育された。秀吉に慈しまれ、一時期は後継者の地位にあった。

秀吉に我が子のように愛された秀秋だが、文禄2年(1593)8月、秀吉に秀頼が誕生すると、翌年、小早川隆景(毛利元就の三男)の養子に出される。小早川家の家督と筑前などの領国を継承し、33万6千石余の大大名となったが──もしかしたら秀秋には、秀吉に厄介払いをされたとしか思えなかったかもしれない。

関ケ原の戦いが勃発したのは、秀秋が19歳のときである。

『日本戦史関ヶ原役』によれば、秀秋の軍勢は約1万5千名。8千名とする説もあるが、そうだとしても、秀秋よりも多いのは、毛利輝元の4万1500、宇喜多秀家の1万8千、龍造寺家・鍋島家の9千余くらいである。秀秋は、関ケ原屈指の軍勢規模を誇るキーマンであったのだ。

秀秋には東軍・西軍それぞれから、起請文が送られた。西軍からは「秀頼が15歳になるまで秀秋を関白職に就け、播磨国一国を与える」など、東軍からは「上方に二カ国を与える」などが約束されていたという。

東西両陣営からラブコールを受け、秀秋の心はどちらに傾いたのだろうか。一時期とはいえ、秀吉の後継者候補であった秀秋である。西軍が提示した「関白職」という条件に、心惹かれはしなかったか。

慶長5年(1600)9月15日、松尾山に布陣していた秀秋は、西軍の大谷吉継の軍勢を急襲した。白峰旬氏らの研究により、通説と異なって、開戦直後の裏切りであり、あっという間に西軍が崩壊したという説が有力だ。

この歴史に残る裏切りは、秀秋自身の意思によるものだったのだろうか。

光成準治氏『小早川隆景・秀秋』では、秀秋の寝返りは、小早川家中としての意思であり、東軍有利とみた家臣たちが、裏切りを迫ったのではないだろうか、と推測している。

自身の意思であるにせよないにせよ、秀秋は裏切り、その裏切りは新たな裏切り者を生み出すことになる。通説によれば松尾山麓に布陣していた西軍の脇坂安治、朽木元綱、小川祐忠、赤座直保の軍勢も、秀秋に呼応するように大谷隊を襲撃していったのだ。

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最終更新:2/13(木) 12:13
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