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鶴岡一人のヤクルト監督はならず/週ベ回顧

2/25(火) 10:14配信

週刊ベースボールONLINE

 一昨年、創刊60周年を迎えた『週刊ベースボール』。現在、(平日だけ)1日に1冊ずつバックナンバーを紹介する連載を進行中。いつまで続くかは担当者の健康と気力、さらには読者の皆さんの反応次第。できれば末永くお付き合いいただきたい。

鶴岡一人のロッテGMもならず

 今回は『1970年10月5日特大号』。定価は90円。
 
 ヤクルトの松園尚巳オーナーは鶴岡一人元南海監督招へいのため、旧知の元西鉄・中西太に仲介を依頼したが、9月11日、中西から電話があり、鶴岡が断ったと告げられた。
 松園と中西の関係は、中西が西鉄時代にさかのぼる。ヤクルトはもともと博多が本拠地の企業だったが、1955年ごろに中西を企業ポスターに起用し、その際、意気投合したらしい。

 松園には、ヤクルト監督としてもいずれは中西という思いがあったが、まずは基礎固めと鶴岡に依頼したという。ただ、鶴岡は引き受けるならフロント、コーチの人事権もと要求。家族主義が強かった松園オーナーはそれをのめず、断念した。

 これを受け、中西は義理の父で近鉄監督の三原脩招へいを進言。松園オーナーも承諾した。
 三原と近鉄の契約は2年で、ちょうど途切れることに加え、大阪での単身赴任が身体的にかなりつらくなっていたようだ。

 断った鶴岡は、すでにロッテの永田雅一からも熱心に誘われていたが、ロッテが優勝間近とあって「優勝監督の濃人監督を押しのけてまでしたくない」と断った。
 ならばと鶴岡が南海時代から熱望するGM職と話が決まりかけたが、横やりをいれたのが、いまや球団内では永田以上に力を持つ中村長芳オーナー代理。中村は岸信介元首相の秘書だったが、ロッテとオリオンズとの提携の際に動き、そのまま球団に入った。
 中村は永田が自分に相談せずに動いたことが気に入らなかったようだ。
「鶴岡さんの入団には絶対反対だ。3年がかりで優勝させた濃人君をくびにするようなことはできない」
 と語っている。

 昔、10年選手へのボーナスがあったが、その支払いがこの年で最後になった。すでに61年8月21日以前入団者と規定があった。

 表紙は箕島高の島本講平。第2のコーちゃんと言われ、大人気だった。 

 では、またあした。

<次回に続く>

写真=BBM

週刊ベースボール

最終更新:2/25(火) 10:14
週刊ベースボールONLINE

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