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大矢明彦が佐々木&谷繁バッテリー 誕生秘話を告白「シゲを使っていいか」

2/25(火) 6:20配信

webスポルティーバ

連載「礎の人 ~栄光の前にこの人物あり~」第7回:大矢明彦(前編)

派手なファインプレーは誰が見てもわかる。優勝の瞬間のヒーローもまた万人は知る。しかし、その場の勝利は遥か彼方にありながら、創成期や過渡期のチームを支え、次世代にバトンを渡すために苦闘した人物に気づく者は少ない。礎を自覚した人は先を見すえた仕事のしかたゆえに、その結果や実績から言えば凡庸、否、惨憺たるものであることが多い。

【写真】山田久志が語る、ドラゴンズの谷繁元信獲得秘話。

しかし、スポーツの世界において突然変異は極めて稀である。チームが栄光を極める前に土台を固めた人々の存在がある。「実はあの人がいたから、栄光がある」という小さな声に耳を傾け、スポットを浴びることなく忘れかけられている人々の隠れたファインプレーを今、掘り起こしてみる。

第7回は、横浜ベイスターズが日本一に輝いた1998年の前年まで2シーズンにわたって監督を務め、優勝までの礎を築いた大矢明彦。



  1998年の横浜ベイスターズに日本一の戴冠をもたらしたのは、言うまでもなく権藤博監督である。投手育成の卓越した手腕は、中日ドラゴンズや近鉄バファローズでも証明済みである。他方、止めどなくヒットのあふれ出る打線と鉄壁のセンターラインの礎を作ったのは大矢明彦であろう。後編になるが、選手たちもまた、優勝時には退任していた大矢へ感謝のメッセージを発していた。

 NPB史上、最多出場試合記録3021を成し遂げた谷繁元信を捕手として一本立ちさせたのみならず、石井琢朗のショートコンバートなど、それに伴う内野の布陣の入れ替えを断行したことが、当時命名された「マシンガン打線」の成立にも繋がっていく。

大矢明彦と言えば、長きにわたってヤクルトのコーナーストーンを守った人物。1978年の日本一の優勝メンバーでもあり、スワローズの扇の要の背番号と言えば、大矢の27であり、それがやがて古田敦也に引き継がれていく。

 そのヤクルトの象徴でもあった大矢が同じ関東のチームとは言え、横浜ベイスターズの監督に就任していった経緯とはどのようなものであったのか。

「僕はヤクルトで現役引退する際に、松園(尚巳)オーナーからファームの監督をやれと言われたんです。僕らの頃は、選手を辞めたらヤクルトの他の仕事、会社に勤めるというのが通例で、非常にファミリー色の強い会社でした。

 でも僕は、『他のチームも見てみたいので、一回ユニフォームを脱ぎます』ということでお断りしました。それで、解説者になるわけですが、当初、日本テレビ、文化放送、日刊スポーツの3社で仕事をすることが決まっていたんです。

 ところがそこで松園オーナーに呼ばれて、『大矢、この先どうなってるんだ?』と聞かれて。現状を報告したら、『ちょっと待ってろ』と言われて、松園さんがすぐフジテレビに電話されたんです。一応ヤクルトってフジサンケイグループなので、あっという間に逆転してフジテレビ系列に決定してしまうんです」  急転直下、鶴の一声ですべてがひっくり返り、解説者としてフジテレビ、ニッポン放送、産経新聞でのスタートとなった。

「だから、いろんな人に叱られたんですが、オーナーには二軍監督も断っていましたし、あんまり居直りすぎてもよくないなと思って、『お世話になります』と伝えました。これは僕の個人的な考えなんですが、フジテレビは僕を採用しようとは思ってなかったのに、採らざるを得なかったんじゃないかという思いがずっとあったんです。

 それで、解説をやらせていただいていたんですが、1993年に横浜大洋ホエールズが、大洋という会社名を球団名から外すことになりました。そこで、横浜ベイスターズになるにあたり、新チームに肩入れしていたフジテレビから3年行ってくれと言われたんです。

 正直言って、僕はヤクルトでもう一回ユニフォームを着て、できれば監督をやりたいと思っていましたので、やっぱり悩みました。でもフジテレビと契約した時に、個人的には申し訳ないという気持ちがありました。最初から採ろうと思っていなかっただろう僕を世話してくれていましたので、これは恩返しをしなきゃいけないという気持ちがあったんです。最後はベイスターズ行きを自分で決めました」

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最終更新:2/26(水) 16:45
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