一言「マニエリスム」と言ってしまえばよい。本作に寄せられた海外レヴューにある「逸脱」「横道にそれがち」「非線形さ」といった表現は、脱-中心化と脱-焦点化の〈原-身ぶり〉をもつマニエリスム芸術の特徴である。あるいは本作がタルコフスキー「ノスタルジア」(83年)、ヴェンダース「パリ、テキサス」(84年)、ホウ・シャオシェン「憂鬱な楽園」(96年)、アピチャッポン「世紀の光」(16年)など、数限りない映画の「引用の織物」(宮川淳)である点もマニエリスム的内省作用をなす。本作に幾度も現れるミラーボールは、かつて主人公チェンがダンスフロアで出会った亡き妻へのノスタルジアであると同時に、時間と引用が乱反射する複雑な鏡面(いわばビー・ガン的世界模型)ともなっている。またこのミラーボールは、彼の映画に欠かせないビリヤード台の「玉」と二重写しになり、運命の遊戯的不確定性を象徴する「球体幻想」さえなす。直線的時間は解体され、反射と引用の光学が織りなす「鏡のマニエリスム」(川崎寿彦)の時間-迷宮に観る者はいざなわれる。
この時間-迷宮は、鎮遠に向かう旅の途上の、「記憶都市」ダンマイにおける比類なき40分間にわたるワンショット・シークエンスで更に屈折し、その完成をみる。過去・現在・未来が十重二十重と交錯し、チェンの亡き妻(?)さえ暮らすこの場所はユートピア的な別時間の原理に支えられているが、切断なきシークエンスそれ自体が映像のユートピアなのである。あるいは中国という土地柄を踏まえるなら、異端中国文学者・中野美代子が好んで取り上げた「仙界」の一種とも言える。俗界から仙界への移行は、チェンと甥のウェイウェイの二人乗りバイクを追いかけるカメラが「わき道にそれた」瞬間に、その不穏な音響も相まって明確に始まるようだ。仙界で過ごしたのち俗界に戻ってみると夥しい年月が経ていた、という洋の東西を越えて見られる「浦島説話」をチェンが免れたのは、青年に変貌したウェイウェイ(かつて時計の絵を描くことが趣味だった少年)が時間を「巻き戻して」くれたおかげであることが、美しいラストシーンで明らかとされる。回帰するのは時間だけではない。凱里→ダンマイ→鎮遠→凱里という旅の円環構造を思えば、本作はチェン(あるいはビー・ガンその人の)の「内省と回帰」をめぐる〈内空間〉ロードムービーであると知れる(劉静華『円環構造の作品論』参照のこと)――これぞ「回帰ブルース」。
ビー・ガンの発明した「迷宮としての世界」(G・R・ホッケ)は、次作「ロングデイズ・ジャーニー この夜の涯てへ」で迷宮の番人たるミノタウロスを卓球少年の形象で出現させ、彼に導かれるかたちでルイス・キャロル的ノンセンシカルな世界に突き進み、さらなる達成を見る。この新時代マニエリスムの旗手が、世界を再-魔術化させる。
最終更新:3/19(木) 16:30
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