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カミュ『ペスト』の“予言”と小松左京『復活の日』の“警告”ーー感染症を描く古典は“不感症”への予防接種となるか

3/25(水) 12:41配信

リアルサウンド

 新型コロナウイルスの世界的流行(パンデミック)が不安を広げるなか、感染症を扱った既存の作品が再注目されている。今回は、そのなかでも古典といえる小説2作について語りたい。アルベール・カミュ『ペスト』と小松左京『復活の日』である。

【写真】1冊ずつの書影

 『ペスト』は、不条理文学を代表する『異邦人』で知られ、1957年にノーベル文学賞を受賞したカミュが、1947年に発表した長編だ。舞台となるのは、作者の出身地でフランスの植民地だった北アフリカのアルジェリア。伝染病のペストが発生したため封鎖されたオラン市の人々の苦境が描かれる。その筆致はリアリスティックで臨場感がある。

 ネズミの死が続発した後、熱病の症例が増えだした。医者たちは伝染性であることを疑い、新規患者の隔離を医師会会長に要請するが、県の手続きが必要と返答される。『ペスト』では感染拡大の初期から、法律、行政などの制度の問題や知事の権限について書いていた。また、作中には、世間はそれに病名をつける勇気がなく、冷静さを失うなとだけいいたがると指摘するセリフもあったのだ。

 しかし、ついにオラン市は外部から遮断され、市外電話も停止されて連絡手段は電報だけになってしまう。公益のための政策は、離れ離れになる人々を考慮しない。外部からの来訪者は市を脱出しようと企む。お上の措置によって不利益になっても、ペストが勘定を払ってくれるわけではない。死者の病院費用は市の予算か近親者の弁済かは役所の事務にかかわってくる。新たな血清作りにとり組むが、一般化するためには工業的な量が必要だ。治療する側がマスクをするのは、役に立つからではなく、そうすると患者が安心するからである。入院隔離を強いられる患者は実験材料になるのはいやだといい、発症していない人々も自宅への流刑を命じられる。

 このようにカミュは、感染拡大に伴うあらゆることがらを『ペスト』に盛りこもうとした。今年1月後半から新型コロナをめぐる報道が続いているが、メディア上で飛び交っている論点のほとんどは、70年以上前に発表された『ペスト』に含まれていたといっていい。この古典は現在、予言の書であったかのごとく再注目されているが、同作には市民が歴史上のペストとの比較やノストラダムスなど過去の予言を話題にする光景まで記されていた。この小説を読んで、昔はこの程度しか対応できなかったがそれでも歴史は続いたのだから今度も大丈夫と楽観するか、人類は進歩していないと悲観するか、感想は分かれるだろう。

 対策を打つものの後手後手で人々はどんどん追いつめられていく。同作の展開は、パンデミックを含め異常気象や大事故など、パニックが発生する災厄を題材にしたディザスター映画のパターンでもある。ただ、ハリウッド的なエンタテインメントとしてのディザスターものの場合、過酷な事態に立ちむかうヒーローが主人公になる。『ペスト』でも視点となる主要人物の1人は医師のリウーであり、確かに病気に立ちむかっている。だが、有効な治療法はなく、人を救うためではなく隔離対象を選別するための仕事にならざるをえない。無力なのだ。彼は、現在一般的なディザスターものの主人公のごとき活躍はしない。

 一方、小松左京『復活の日』は『ペスト』とは異なり、もう少しヒーロー的に行動する人物が登場する。だが、同作もまた苦い挫折を語った作品だ。


 「チベットかぜ」と呼ばれるインフルエンザが世界で蔓延し、心臓発作も多発していた(1980年の深作欣二監督による映画化では「イタリアかぜ」)。前後して「仮性鶏ペスト」とも呼ばれるニューカッスル病が流行し、鳥が大量に死ぬ。このため、インフルエンザのワクチン製造に必要な受精卵は入手困難になった。各国で死者数が激増する一方、動物も大量に死に、南極にいた1万人以外は滅亡の状況になる。そもそもの原因は、宇宙由来で毒性の強い生物化学兵器「MM-88」が盗難後に漏出したことだった。

 『復活の日』では、たかがインフルエンザと侮ったことが破滅を早めたとされており、インフルエンザとの比較論で語られやはり見通しが甘かった今回のコロナ騒動を連想させる。SFの大家だった小松左京といえば大地震が起きるたびに、地殻変動で列島が消滅する設定の『日本沈没』が警告の書だったと思い出されるが、『復活の日』もまた警告を含んでいた。発症者増加で東京の電車のラッシュが緩和され、野球の試合は軒並み中止。株は暴落。それらが現在と類似するだけでなく、この国が難局を乗り越えるため戦前に似た挙国一致体制に進む点が、政府や自治体の自粛要請で同調圧力が高まった最近の状況と重なる。

 前回の東京オリンピックが開催された年であり、アメリカとソ連、2つの超大国を中心に世界が東西陣営に分かれ対立していた56年前の1964年に書かれた小説である。『復活の日』は、特定の国が人類に終末をもたらしたとするのではなく、互いに情報やモノを盗みあい開発を競う国家間の疑心暗鬼が、大量殺戮兵器を作りだしたのだと語る。物語ではMM-88が世界のほとんどを滅ぼした後、なお核兵器の脅威が迫り、南極の生き残りのなかから有志が最悪の事態を回避しようと動く。

 現在進行形のコロナに関しては、中国から感染が広まったものの同国報道官が「米軍が持ちこんだのかもしれない」と主張して国際的に物議を醸した。コロナを理由に各国でアジア人差別が起きたほか、アメリカではトランプ大統領が「チャイナウイルス」とわざわざ地域に結びつけた呼称を用いて対立を助長している。日本では、中国や韓国の対策をどう評価するか、嫌韓嫌中傾向の強まった保守派と安倍政権を批判するリベラル派では大きな差がある。コロナ感染の陰性陽性だけでなく、アベに感染しているかサヨクに感染しているか、分断の構図ができているかのようだ。

 『復活の日』では互いの疑心暗鬼が生物化学兵器を作りだしたが、現実の世界ではコロナ感染拡大が相互不信の増幅を招いている。相手を疑うためにわき起こる子どもじみた恐怖心や暴力性が、未だに政治に影響している。前世紀の米ソ冷戦時代に発表された同作を読むと、その事実にうんざりせざるをえない。

 『ペスト』、『復活の日』についてそれぞれみてきたわけだが、どちらも感染拡大を描いた2作には行政や経済の混乱など多くの共通要素がある。なかでも特に重い共通要素は、幼い子どもの命が奪われる展開によって、無差別に人が死ぬ状況の不条理を強調することだ。2作とも感染がどんどん増えるなかで、人々が死者数をただの数字の上昇と受けとる不感症状態に陥る様子が語られる。それに対し、幼い子どもの死は、人を数には還元できないことをつきつけるエピソードになっている。

 『ペスト』では、キリスト教の神父が、不安を抱えた信者たちに説教をする。疫病発生に関し、私たちは神の前で反省しなければならないと話す。だが、医師のリウーは、反省すべき罪などない幼い子までがなぜ死ぬのか、そんな世界は愛せないと異議を唱える。

 『復活の日』では、ニューメキシコで生き残った5歳の子から、南極基地に無線機で通信が入る。両親が死に食料も腐ってしまった彼はなすすべがなく、銃で自殺してしまう。小説ではその直後、やはり死を目前にしたヘルシンキ大学教授による最後のラジオ講義が挿入される。19世紀に神の死を宣告した人間が、かといって普遍的な全人類的意識を獲得することもできず、相変わらず争い続けた愚かな歴史をふり返る内容だ。同作も、幼い子が死ぬ理不尽を憤る内容になっている。

 日々、コロナに関する情報に触れないわけにはいかず、むしろ慣れや飽きが心配される今日この頃。あえて感染症を主題にした古典を読むことは、不感症に陥らないための抗体づくりのようなものだ。そう思っている。

円堂都司昭

最終更新:3/25(水) 12:41
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