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新型コロナ「興行大打撃」は、コレラ流行の時代と驚くほど似ていた

3/25(水) 6:31配信

現代ビジネス

 「丸之内の大消毒 丸ビル、劇場に保菌者発見」

 丸ビルおよび周辺のビルや劇場で感染者が発見されたため、丸の内一帯の大消毒が行われた。今からおよそ100年前、大正14(1925)年12月21日の『東京朝日新聞』の記事である。

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 丸ビルこと丸ノ内ビルヂングは3年前に竣工したばかり、低層階をショッピングモールにしたオフィスビルの先駆けであり、大勢の人が行き来する場所であった。

 つい先日、新丸ビルで新型コロナウイルスの感染者を確認し、ビルの消毒が行われたことは記憶に新しい。近年、日本人が感染症の脅威を身近に感じる機会は少なかったが、歴史を振り返ると、感染症は常に隣り合わせに存在していたのである。

 記事中の劇場とは、かつて有楽町にあった邦楽座のことだ。現在、政府からのイベント自粛要請によって、多くの劇場で公演中止が続いているが、明治のころから、興行は感染症を理由にいく度も禁止されてきた。換気が悪く、人が密集する劇場や寄席は、感染症リスクの高い場所と見られてきたのである。

 たしかに人命にはかえられないが、興行にたずさわる人々にとって、長期間の興行中止は死活問題である。明治以降の興行師は、対策を講じて嘆願書を出すなど、興行再開に奔走した。

 興行師にとっての近代とは、一面において、感染症との戦いの歴史でもある。そして、最大の敵となった感染症が、「コロナ」ならぬ「コレラ」だった。

コレラ流行、江戸と明治の違い

 コレラは、もともとインドの風土病である。それが19世紀にパンデミックへと発展したのは、西洋列強によるアジア進出という時代背景がある。その影響は、鎖国下の日本においても無関係ではいられなかった。

 文政5(1822)年に下関に初上陸し、安政5(1858)年には江戸でも大流行している。その惨状は、火葬場が棺桶であふれたと伝えられるほどだ。

 だが、歌舞伎研究者の日置貴之によれば、感染症の流行を理由に興行が禁止されることはなかったという。江戸時代の劇場にとっては、感染症よりも火事の方が恐ろしいという感覚だったようだ(「安政5年(1858)コレラ流行下の中村座」)。

 明治維新がなってからは、明治10年に再びコレラが流行し、以後も繰り返し発生した。このときには、行政による興行中止命令が出されている。江戸から明治への変化は、「公衆衛生」の発見が背景にあるだろう。

 日本の衛生行政は、岩倉使節団に随行した官僚の長与専斎を中心に確立されていった。長与は、中国古典の『荘子』に出てくる「衛生」という語を今日的意味ではじめて採用し、明治8年には内務省衛生局の初代局長に就任している。

 感染症は、個人による養生ではなく、国家による衛生システムによって対処すべき時代となった。この衛生対策の推進は、当然のごとく劇場にも求められることになる。

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最終更新:3/25(水) 6:31
現代ビジネス

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