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山崎隆造が語る昭和黄金期の監督。古葉、阿南時代のカープとは?

3/26(木) 6:00配信

広島アスリートマガジン

 私がプロ入りした当初の監督が古葉竹識監督でしたが、本格的に古葉監督の元でプレーしたのはプロ2年目の78年です。右打ちだった私はスイッチヒッターに挑戦することになりましたが、進言してくれたのが古葉監督でした。すんなり左打席の感覚をつかんだ私はファームで結果を残すことができ、プロ3年目の79年夏に一軍昇格できました。

【写真】1979年、2度目のリーグ優勝を決めて胴上げされる古葉監督

 今でも記憶しているのは、一軍に昇格したばかりの私を巨人戦でスタメン起用し、プロ初安打を打つことができました。当時全く実績がない選手だった私をすぐにスタメン起用してくれたことは、今思い返してみてもすごいことだと感じます。

 79年、80年にかけて2年連続日本一を達成しましたが、この時期に古葉野球を本格的に体感し始めました。当時の古葉さんは『口数が少ない監督』という印象でしたが、若かった私はよく怒られました(苦笑)。古葉さんは私に対し、まず『目で物を言う』といった感じでしたし、そんな古葉さんに威厳を感じていました。

 普段からしっかりと一人ひとりの選手を見ている監督でしたので、私たちには練習中も試合中も絶対に気を抜けない雰囲気が常にありました。後に聞いた話では、『監督というのは選手をずっと見続けるのが仕事だ』と仰っていたようです。選手を見続けることで、ちょっとした仕草からも調子を見極めていたのだと思います。

 また古葉さんからは、基本の大事さを教わりました。『プレー中は絶対に球から目を離すな』とよく言われたことが印象深いです。古葉野球はいろんな表現がありますが、緻密に相手のミスを突き、足を使った攻めを多用して巧みに得点を奪う、そして投手を中心とした守りの野球でした。私は若い頃から足を武器とする選手だったので、起用していただいたのだと思います。

 攻めにおいて機動力を重視される采配でしたので、俊足の選手であれば、当時の私のように若手であっても『チャンスがあればフリーで盗塁を狙え』という方針。ですので、そういう状況で走らなければ、「何故走らんのだ!」と叱られることも、しばしばありました(苦笑)。

 83年から私はレギュラーとして起用され、古葉監督が退任される85年まで連続試合出場を続けました。長いシーズン、必ず痛みを抱えてプレーする時期はあります。ですが、『レギュラーとは体調が万全でなくとも、試合に出続けること』というものを言葉ではなく、起用法から教えられました。

 後に今も球団で活躍するトレーナーの福永(富雄)さんから聞いた話では、私が肉離れをしていた時、古葉さんは「山崎が万全でなくとも、70~80%の力を出せるのであればチームのためになる」と仰っていたようです。当時、私はポジション確保に必死でしたので、後にそれを聞いた時、初めて古葉さんから信頼されていたんだと実感することができました。

 古葉さんがいなければ私はスイッチに転向していませんし、選手生命も短く終わっていたでしょう。私の野球人生においての恩師です。古葉さんの座右の銘に『耐えて勝つ』とありますが、正にその通りで、髙橋慶彦さん、私にしても当時実績のない若手を起用するには相当の我慢が必要であったと思います。未だに古葉さんに会えば背筋が伸びますし、何年経っても関係性は変わりません。いわば、“昔ながらの厳格な親父と息子”のような関係性でしょうね。

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最終更新:3/26(木) 11:42
広島アスリートマガジン

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