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タイが新型コロナで非常事態宣言に至った本当の理由

3/26(木) 6:01配信

ダイヤモンド・オンライン

● 非常事態宣言の 当面の期限は1カ月

 「どういうことだ!これでは地方でクラスターが発生してしまうではないか!」

【「ビーチで飲食に興じる若者」など、タイの街の様子(画像)はこちら】

 3月22日午後、王宮にも近い首相府の首相執務室。扉のすぐ外で待機していた側近の役人たちは、プラユット首相のあまりの怒号の大きさに思わず顔を見合わせた。いたたまれずうち一人が室内をのぞくと、大型液晶テレビに映っていたのはバンコクの主要なバスターミナル駅の1つ「モーチット・バスターミナル」が人であふれる映像だった。

 テレビには、故郷へ向かうバスを待つ数千の人の波が映し出されていた。みな口々にマスクを装着した異様な光景。保健省の説明によると、この日午前0時からバンコク首都圏のレストランや商業モール、美容院などが一斉に閉鎖されたことにより、長期休業や解雇となった人たちだった。

 物価の高いバンコクにこのまま居続けても手持ちの生活費が減っていくばかり。ならば金のかからない故郷で過ごそうと駆けつけたのだった。濃厚接触確実な機密性の高いバスに乗って、これから十数時間の長旅となる。地方都市でのクラスター発生がにわかに現実味を帯びた瞬間だった。

 こうした事態を受けてタイ政府が3月24日午後に発表したのが、3月26日からの非常事態宣言だった。

 根拠法令である仏暦2548年非常事態勅令は、国の安全保障や公共の安全が脅かされるときなどに国王の名において発令することができると規定。憲法も第172条でこれを認める。

 3月24日時点で詳細についての発表はないものの、勅令によって国民の自由や私権は制限され、個人の行動や企業活動が政府のコントロール下に置かれることは確実だ。当面の期限は4月末までとするが、延長の余地も残る。現地メディアが好んで使っている「バンコク・ロックダウン(都市封鎖)」が現実のものとなった。

 非常事態宣言が首都一円を中心に発令されたケースとしては、最近では2010年4月と14年1月の2回がある。

 前者はタクシン元首相を支持するデモ隊が当時のアピシット政権(民主党)打倒を掲げて、バンコク中心部の商業施設などを襲撃・占拠したとき。

 後者は反対に、当時のインラック政権打倒を目的に反タクシン派が大規模なデモを展開したときだ。このとき、デモ隊は首都圏の主要な交差点を「バンコク・シャットダウン」と称して3週間にわたり完全封鎖。当時陸軍司令官だったプラユット氏らによる軍事クーデターの呼び水となった。

● 保険金欲しさに コロナ感染する人も

 今回、政府が伝家の宝刀を抜くことになった背景には、いくつかの理由がある。

 最初に問題となったのが、3月6日に実施された格闘技競技場での集団感染だった。タイの伝統格闘技「ムエタイ」には、真の勇者を決めるスポーツイベントであるのみならず、政府公認の賭博であるため、国民の関心は高い。

 2月以降、コンサートやイベントなどが軒並み中止とされ、ストレスがたまっていたこともあり、数千人のファンがムエタイの競技場に押しかけた。「熱狂はいつもの倍以上だった。みんなが拳を上げ、大声を上げていた」と参加者した一人は証言する。

 当初、政府にはこれだけの観客が殺到するとの情報は入っていなかった。

 ところがふたを開ければ当日の全10試合とも常に満席の状態で、立ち見もでるほど。密閉された会場は熱気と汗と飛沫に包まれた。

 これにより、選手やトレーナー、司会者、主催者ら総勢128人が3月23日までに集団感染。その中には皮肉なことに、プラユット首相の出身母体である軍上層部の後輩たちの姿もあった。

 一方、バンコク市内のムエタイ競技場でのクラスター発生が確認されたころ、東部チョンブリ県バンセーンなどの臨海部でも、後に首相の怒りを買う濃厚接触が公然と展開されていた。

 3月22日早朝から飲食店や商業モールは一斉閉鎖され、多くの若者が行き場を失っていた。しかも、この日は晴天の日曜日。暇を持て余していた若者たちがこぞって目指したのは、海からの風が心地良い海岸沿いのビーチ(砂浜)だった。ビニール製のゴザを敷いて、持ち寄った酒や食事で乾杯する姿があちこちで始まった。

 会員制交流サイト(SNS)で事態を知った地元当局者が慌てて撤収を求めたが、誰も応じない。もはや為すすべもなかった。

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最終更新:3/26(木) 10:31
ダイヤモンド・オンライン

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