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『憂国のモリアーティ』は優れたパスティーシュだーー“正典”への大胆なアプローチを読む

3/27(金) 8:02配信

リアルサウンド

 この世界にある、すべての物語の中で、もっともパロディ、パスティーシュ作品が生まれているのは、コナン・ドイルの「シャーロック・ホームズ」シリーズ(以下、正典と記す)だろう。ヴィクリア朝のロンドンで諮問探偵をしているシャーロック・ホームズと、その相棒であるワトソンの活躍を描いたミステリーは、発表当時から大きな人気を獲得。現在も世界各地にシャーロキアンと呼ばれる、熱狂的なファンが多数存在している。

 それは作家も同様のようだ。ドイル以降、数多くの作家が、正典のパロディ、パスティーシュを発表している。その中に、名探偵ホームズをして「あの男はいわば犯罪界のナポレオンだよ。この大都会の悪事の半分と迷宮入り事件のほとんどの、黒幕だ」(日暮雅通訳)といわしめた、稀代の悪党ジェームズ・モリアーティを題材にした作品もある。ジョン・ガードナーの『犯罪王モリアーティの生還』『犯罪王モリアーティの復讐』や、キム・ニューマンの『モリアーティ秘録』など、幾つかの作品が書かれているのだ。また、コナン・ドイル財団の公認作品である、アンソニー・ホロヴィッツの『モリアーティ』は、かなり捻った内容だが、一読の価値あるパスティーシュであった。

 その他にも日本人作家の某短篇など、触れたい作品はあるが、煩雑になるので控えよう。このようにモリアーティを題材にした作品の最前線に位置するのが、『憂国のモリアーティ』だ。2020年3月現在、単行本が11巻まで刊行されている。ミュージカル化や舞台化されており、アニメ化も決定した。正典のパロディ、パスティーシュ漫画は今までにもあったが、これほど広範な人気を得たのは初めてのことである。なにがそれほど読者を魅了したのだろう。

 本書を読んで、まず感心したのが、モリアーティの設定だ。厳格な階級社会により、貴族が我が世の春を謳歌していた、ヴィクトリア朝の大英帝国。貴族の長男のアルバート・ジェイムズ・モリアーティは、孤児の兄弟を養子に引き取る。愚劣な貴族を跋扈させる階級社会を憎む三人は、火災を装って家族を殺害。孤児の兄弟を、次男のウィリアム・ジェームズ・モリアーティ、弟を三男のルイス・ジェームズ・モリアーテイに仕立て、大英帝国を変革するために動き出す。アルバートは陸軍中佐になり、密かに牙を磨く。ウィリアムは大学の数学教師を表の顔にし、裏では犯罪相談役として暗躍。ルイスは、そんな兄の手助けをしている。つまりは三人モリアーティなのだ。ここに最初の独創がある。

 とはいえ主人公は、正典のモリアーティを担当する、次男のウィリアムといっていい。非道な貴族を巧みに殺しながら、三人は地保を固めていく。セバスチャン・モラン大佐や、フレッド・ポーロックといった、ウィリアムの配下も、生き生きと躍動する。その過程で大英帝国が諜報組織MI6を設立。アルバートが組織の長となるのだが、これには驚いた。実際の歴史を大胆に変えているのだ。でも、これにより物語の幅が大きく広がっている。

 さらに客船でウィリアムズたちが事件を起こす「ノアティック号事件」で、シャーロック・ホームズが登場(このホームズのキャラクターもユニーク)。ホームズを駒として動かそうとするウィリアムたちと、闘いを繰り広げる。オリジナルの事件もあれば、正典を換骨奪胎し、新たな物語に仕立てたものもあり。どれも面白いのだが、特に感心したのが、正典の「ボヘミアの醜聞」をベースにした「大英帝国の醜聞」だ。正典のホームズが“あの女性”と呼ぶアイリーン・アドラーがバッキンガム宮殿から盗んだ文書を巡り、錯綜したストーリーが楽しめる。文章の内容は驚くべきものであり、物語の着地点にも意表を突かれた。正典に対する知識があったほうが味わい深くなるが、知らなくても問題なく読める。優れたパスティーシュとは、そのようなものである。

 さて、このようにエピソードを個別に見ていくときりがないので、物語を貫くテーマに注目しよう。階級社会によって貴族以外が理不尽に蹂躙される大英帝国を変革しようとするウィリアムたちは、目的への手段として「劇場型犯罪による民衆への啓示」を実行している。さらに非道な貴族を、自らの手で殺すことも厭わない。こうした悪によって悪を誅するという姿勢は、ダークヒーローとして、けして珍しいものではない。

 だが、だからこそ彼らの活躍にスカっとした気持ちになる。戦後、長らく続いていた一億総中流幻想は、1980年代からメッキが剥げ始め、バブル崩壊によって完全に止めを刺された。それにより現代の日本もまた、階級社会であることが露呈。下流社会や上級国民という言葉が生まれるまでになったのである。ヴィクトリア朝の庶民ほど悲惨な境遇ではない。でも、一握りの権力者や金持ちによって、社会が支配されているという思いが、どうしても拭えない。だからこそ、ウィリアムたちの“憂国”ゆえの犯罪に、拍手を送りたくなる。ヴィクトリア朝の犯罪卿が、令和を生きる私たちの鬱屈を晴らしてくれるのだ。

細谷正充

最終更新:3/27(金) 13:05
リアルサウンド

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