先日、Twitterでとある落語家のツイートを眺めていると、彼のフォロワーから「あなたの落語を聞いたが、差別的な表現があった。今の時代には不適切だ」と批判的なリプライが送られていた。
確かに古典落語では父親の借金のかたに吉原に“自ら”売られていく娘や、殿様に理不尽な理由で切腹を言いつけられる侍が、「親孝行な子供」あるいは「忠義ある部下」として美談のように描かれることがある。現代の価値観にはそぐわない表現だと言えるだろう。
それに対してその落語家は「落語はそもそもそういうものだ」という旨を返信していたが、私はわだかまりを覚えた。
昨年のM-1グランプリあたりから「誰も傷つけない笑い」という言葉がメディアでも度々登場し、お笑いにもコンプライアンスを求める流れの中で、「そういうものだ」の一言で済ませていい問題なのだろうか。
“理論的”なまなざしで時代を切り取った新作落語を次々と生み出す若手落語家の立川吉笑さんに、伝統芸能とコンプライアンスの問題について聞いた。
恐ろしくゆっくり進んでいく走馬灯ならぬ『歩馬灯』、ゾーン状態に入る番頭さん、過剰に恩返しするタヌキ、中に人間が入った自動販売機……。立川吉笑が創作する新作落語には枠にとらわれない独特な切り口が次々と登場し、聞くものを驚かせ、爆笑の渦に誘う。
それは漫才やコントに親しんだ世代にはむしろ取っつきやすく、「落語=おじさんがしゃべる古臭いもの」というイメージを裏切ってくれる。実際に吉笑が表参道で主催する「ひとり会」の客席には若者も多く、今まで触れてこなかった芸を聴き逃すまいと前のめりになっている。
新作だけではなく古典にも果敢に取り組み、常に落語を俯瞰(ふかん)で捉えながら芸の幅を広げている当代きっての理論派だ。冒頭で取り上げた批判について、彼であれば「そういうものだ」では終わらないだろう。
「基本的に古典落語は江戸時代に作られているものが多いので、現代の価値観に合わないネタはもちろんたくさんあります」
落語は能狂言と同じ伝統芸能であるが、能狂言の客層の多くが武家できわめて格式高いものであったのに対し、江戸落語は「江戸の庶民」という限られた階層、きわめてクローズドな世界で客を楽しませるために発展してきた芸能だ。それが現代のようにテレビやラジオやネットなどを介して老若男女(=マス)に広がっていくと、そこに違和感を覚える人が出てくるのは必然である。
「これまでにもお客さんが不快に感じる表現があれば、その時々の落語家が形を変えてその時代に適応してきました」
例えば、視覚障害や聴覚障害を持つ人が登場するネタは近年では滅多に高座にかけられなくなった。「江戸時代では笑い話になったことであっても、それを面白がることはよくない」というのが一般的な認識になったからだ。
また、この10年で女性の権利やハラスメントの問題が盛んに言われるようになり、女性が登場する落語にも変化が見られるように。『持参金』というネタは、借金を返すために女性の持参金をあてにして結婚するという内容だが、女性の容姿を嘲(あざけ)る演出もあるため禁止している寄席もあるという。
「江戸には遊郭などの文化があったことは事実。当時の古典落語をそのまま演じることには歴史的価値もあり、歴史を残すことを目指している落語家もいます。その一方で、自分の中で整合性をとって『これは今の時代にそぐわないからじゃあどうするか』という部分をブラッシュアップしている人も増えてきました。落語も緩やかな過渡期にあると思います」
「僕が思うに落語家は社会的にモラルの高い人の集まりではないので(笑)、社会的な意義から問題のある表現を変えてるわけではありません。自分の言ったことでお客さんが引いてしまったり、嫌悪感を覚えられるのが一番辛い。お客さんの反応を見て、ウケたいから変えているんです。なので落語が変わったというより、社会(お客さん)が変わったのかもしれません」
「落語は社会を映す鏡なので、もし30年後にまだ差別的な表現が残っているとしたら、それを受け入れてしまっているお客さんがまだいるっていうことなんだと思います」と吉笑は語った。
最終更新:3/28(土) 12:05
朝日新聞デジタル&[アンド]































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