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のび太たちが体現する男性学的なテーマとは? 『ドラえもん論』著者・杉田俊介インタビュー

3/28(土) 10:07配信

リアルサウンド

 過去に『ジョジョ論』、『長渕剛論』、『宇多田ヒカル論』、『宮崎駿論』などの著作がある、1975年生まれの批評家・杉田俊介。文芸誌や思想誌で労働問題やサブカルチャーについて健筆をふるう彼がこの度上梓したのが、『ドラえもん論 ラジカルな「弱さ」の思想』だ。『ドラえもん』については過去にもいくつかまとまった批評や論考があったが、杉田は男性学やフェニミズム的な観点からジャイ子やしずかちゃんに迫っている。PC(ポリティカル・コレクトネス)的な、あるいはルッキズム的な解読格子によって、『ドラえもん』はどのような作品として捉えられるのか。著者の杉田にインタビューを行った。(土佐有明)

著者近影

■のび太君とドラえもんは共依存的な関係

――ドラえもん論は、過去にも何人かの著者が書いていますが、自分ならこう書くというアイディアがあったのでしょうか?

杉田:『ドラえもん』の世界の核心を率直に書いた方が面白いと思いました。あらかじめ何らかの価値観ありきで『ドラえもん』の世界を裁断するような評論とか、日本の社会状況を社会学的に論じるタイプの『ドラえもん』研究は過去にもいろいろあるのですが。でも僕が子供の頃から感じていたいちばん面白いところや危ないところは、あまり真正面から論じられていない、という印象が正直ありました。

――面白くて危ないところってどういうところでしょう?

杉田:たとえば、どんなに科学技術が進歩しても、人間の根本的な愚かさや無力さは克服できない、というところなどでしょうか。ロボットとしてのドラえもんって、科学技術が発達した22世紀に作られたんですけど、どうやら未来の人間たちは、今の我々と比べてそれほど賢くもないしあまり進歩もしていない。科学技術の発達と人間の愚かさのギャップという問題は、のび太君のキャラクターにも反映されています。何度成長しようとしても成長できないし、便利なひみつ道具をろくに使いこなせずに、また元のダメな自分に戻ってくる。

――のび太は成長しないけれど、ドラえもんは?

杉田:「てんとう虫コミックス」の初期のほうでは、ドラえもんって結構キレやすいキャラなんです。最初の頃はジャイアンよりもスネ夫の方が悪役なんですけれど、スネ夫がのび太に突っかかってくると、のび太君よりもドラえもんの方が先にキレて、暴走したりします。けれども、物語の途中から、のび太君があまりにもダメなままだから、ドラえもんが「もうだめだ」って諦め顔になってくる。その辺りから、のび太君の弱さだけではなく、ドラえもんのほうの弱さにも段々焦点が当てられていきます。妹のドラミちゃんと比べて、いかに自分がポンコツであるかを反省したり。

――ドラえもんってもともと、欠陥のあるロボットでしたよね。

杉田:ドラえもんってもともと、のび太君のお世話をするケアロボットなんですよね。でも、ケアロボットとしてはドラミちゃんの方が全然優れている。そもそもドラえもんは、未来社会でもダメでポンコツで、廃棄処分寸前だった。たとえばコミックスの第1話では、ドラえもんはのび太くんにタケコプターを渡すんだけど、頭じゃなくてお尻のあたりにそれをつけて、ズボンが脱げてのび太くんは墜落してしまう。ドラえもんは「僕に任せておきなさい」と自信満々に言うんだけど、のび太くんは「あいつ大丈夫なのかな?」ってそれを疑わしく思うところで終わっている。

――のび太とドラえもんの関係性はどう変わっていくんですか?

杉田:のび太君の弱さって、勉強や運動ができないとかケンカが弱いというよりも、他人に対する依存体質にあるわけです。ドラえもんは、自分が助けてばかりいると、かえってのび太君は成長できないんじゃないか、という反省意識が強くなっていく。ほんとうは転んだ時に起こしてあげるよりも、自分で立てるようにすることが重要なわけです。わかってはいるけれど、のび太君の頼みをどうしても断るに断れない。過度に甘やかしてしまう。ある種の母性愛のようなもの。それがドラえもんの根本的な弱さなんです。それゆえ、のび太君とドラえもんは共依存的な関係になり、お互いの弱点を増幅させてしまう。それはそのままでは友情になりえないんですよね。コミックスの巻を追うごとにそういう関係性に対する自覚がふたりに芽生えていきます。

――ひみつ道具がなくても、ふたりの関係性は変わらないのでしょうか?

杉田:昔、筋肉少女帯の大槻ケンヂさんが「ポッケのないドラえもん」という比喩をよく使っていました。ひみつ道具を使えないドラえもんは、この世で一番の役立たずであり、無力な存在の象徴だと。これはドラえもんがポケットをなくしたり、壊れたりして無力化する1990年代のドラえもん映画のテーマでもありました。それならば、のび太くんにとってほんとうに大事なのは、便利な科学技術の恩恵なのか、ドラえもんという存在そのものなのか。二人の友情の中心には、そうした葛藤があるわけです。藤子F先生の作品ではたとえば『ブリキの迷宮』、近年の作品ではたとえば『ドラえもん のび太のひみつ道具博物館』などで、そのあたりの葛藤がラジカルに描かれています。のび太君にとってはもちろん、たとえ科学技術の恩恵がなくても、ドラえもんという存在そのものが大事であるわけです。

――では、ドラえもんの「危なさ」とは?

杉田:たとえば『ドラえもん』の映画ではしばしば、愚かな失敗や戦争をくりかえす人類の度し難さにうんざりした海底人や地底人や天上人が出てきて、人類を絶滅させようとします。しかし怖いのはそのことではありません。本当にやりきれないのは、それらのホモサピエンスとは別の形で進化して文明を築いた海底人や地底人や天上人もまた、じつは、人類とあまり変わりないくらい愚かで度し難いんです。つまり、色々な生命体がそれぞれに、どんなに進化して発展して進歩を繰り返しても、結局、自滅的に滅びていってしまう。そういう怖さというか、暗さというか、危なさ。それが『ドラえもん』ワールドの大前提なんですね。

■子どもたちに楽天さを託そうとしている

――コミックスの『ドラえもん』の始まった69年は、大阪万博の前年です。万博は「人類の進歩と調和」を謳いながらも、太陽の塔を作った岡本太郎などは、そのテーマに懐疑的だった。経済的には右肩上がりの成長がある一方で、それに疑問を投げかける声もあった。例えば、手塚治虫の漫画にもそうした兆候はありましたね。

杉田:科学技術の発達で人間以上の性能をもつロボットが発明されるけど、ロボットは人間らしさそのものを獲得できない、という苦悩は『鉄腕アトム』の中で描かれていますね。とはいえ、人間が創造したアトムの方が人間よりもヒューマニズムを持っている、というパラドックスがある。そうした矛盾は『ドラえもん』の世界へも流れ込んでいると思います。たとえば1970年代は様々な公害が社会問題になり、やがてエコロジー思想も発展しました。『ドラえもん』でも連載初期から、科学技術の進歩には危うい面があるのではないか、という反省モードがすでに書き込まれています。しかしそれは、そもそも、ドラえもんのひみつ道具に対する懐疑を意味するし、さらにいえば、ドラえもんというロボットのアイデンティティそのものを揺るがしかねないものでもありますね。

――人類の愚かさというのは『ドラえもん』の重要なテーマですね。

杉田:人類をよりよく改良するための発明がかえって人類を危機に追い込んだり、不幸を増幅したりしていく。そういうジレンマをこの本の中では、政治と宗教と科学と進化という4つの視点から考えてみました。『ドラえもん』の世界では、いずれにせよ、暗い結果になるんですね。例えば民主主義的な社会を作ろうとするけど、なぜかどうしても独裁制に陥っていく。科学技術は暴走していくし、宗教はカルト化していく。どうやっても大して成長できない。アーサー・C・クラークのように、人類は進化の果てに超生命になるとか、小松左京のように、破滅と廃墟の中から人類や日本人は再生するとか、そういうビジョンが存在しないんですね。

 かといって、完全に悲観しているわけでもなくて、そういう何度やってもダメで愚かな自分たちをどこか斜めから見下ろして、かすかに微笑んでいる。そういうユーモラスな視点が『ドラえもん』にはつねにあります。失敗を何度も何度も繰り返しながらも、何かがほんのちょっとずつ良くなっているのかもしれない。悲観でもなく楽観でもなく、いわば楽天的であるようなところがあって、読者である子どもたちにそういう楽天さを託そうとしているのではないか。

――読者が子供という意味では、携帯もネットもゲームもない当時の世界が古びてしまう、というのはないでしょうか?

杉田:逆に『ドラえもん』ではまだまだ魔法のように空想的だったテクノロジーが実現可能になりつつある、という面もありますよね。

――ああ、ほんやくコンニャクが翻訳機のようだったり、糸なし糸電話がスマートフォンを連想させたり。

杉田:人間にとっての技術の意味って、一方向的に進歩するものじゃなくて、行ったり来たりしながら螺旋状に、モザイク状に展開されていくものだと思うので。ファミコンミニみたいなものにある種の「新しさ」を感じられたり。

■ジャイ子は本当に気高い

――著作を拝読していちばん驚いたのは、ジャイ子が気高い女性であるという指摘でした。彼女は漫画家を目指していて、ジャイアンは歌手志望だから剛田家はアーティスト一家だと。

杉田:ジャイ子は最初、のび太君の不幸な未来の象徴として出てきます。しずかちゃんと結婚したいけど、ジャイ子みたいな性格も見た目も悪い女性と結婚するのは嫌だって。現代の価値観からすれば、ルッキズムなどの非常に差別的な視点が入っているんです。

 でも、彼女は漫画家になるのが夢で、漫画家として職業自立しようとしていて、周りからどう見られているかをあまり気にしていません。恋愛結婚を目指してもいない。自分の作品に対してすごく厳しいんですよね。ジャイアンが妹愛を発揮して、ジャイ子が漫画家デビューできるように根回しするんですけど、ジャイ子はそれをあえて断ったりもする。たんに承認欲求を満たしたいわけじゃない。読者からの批判に納得すると、自分の漫画の路線を切り替えたりする柔軟さも持っています。

――ここまでジャイ子について紙幅を割いたドラえもん論も珍しいですよね。

杉田:フェミニズム系の論者の中では、かなり注目されてきたと思います。たとえば茂手もて夫というキャラが終盤に出てきて、ジャイ子は彼に最初は恋愛感情を持つんだけど、結果的には友人になり、むしろ、漫画を愛する者としての「同志」になる。もて夫君とジャイ子の関係には明らかに安孫子素雄先生(藤子不二雄A)さんと藤子先生(藤子・F・不二雄)の関係が重ねられています。恋愛によって救済されるのではなく、あくまでも漫画創作を通して切磋琢磨する関係に着陸する。

 ジャイ子はたぶんスクールカースト的には、のび太君と同じかもっと過酷な下層にいると思う。そんなに勉強もできないみたいだし、外見的にも色々とバカにされたり差別的な言動を浴びている。のび太君が自分の弱さを結構こじらせているのに対し、ジャイ子は自分の運命を嘆いていないし、誰かに責任転嫁したりもしていない。そういうところがジャイ子は本当に気高いですね。たんなる職業自立的な女性、というだけではなく。

――ジャイ子はのび太とスペックはほとんど変わらないのに、こじらせていないと。

杉田:そうですね。のび太とジャイ子の関係がもう一回交差していたら、どうだったんだろうと思ったりします。恋愛関係という意味ではなく、人間同士で向き合って新たな「心の友」になれたらと。

 『がんばれ!ジャイアン!!』という感動中編がかつてありましたが、今『ドラえもん』映画を作るなら、ジャイ子を主役にするといいんじゃないか。今なら絶対に世の人々の心をつかむと思う。ジャイ子的な存在が体現するフェミニズム。容姿や恋愛に恵まれなくても、人は気高く生きられるという。実力もあるし外見も可愛いけど社会から不当に認められていない、という作品はよくありますが、ジャイ子のような女性が何もこじらせずに気高く生きていく、っていう作品はそれほど多くない。ジャイ子にのび太君がどうやって再び向き合えるか、ジャイ子に匹敵する人間になれるかを描いたら、男性学的な意味でもちょっと面白いんじゃないかな。

――ちなみにジャイ子はスクールカーストだけではなく、経済的にも下層の家に生まれていますね。

杉田:当時はまだ一億総中流社会っていう幻想があったけど、野比家は多分中流の下くらいですかね。借家暮らしで、小遣いも不払いになる生活レベル。出木杉くんとかしずちゃんの家はおそらく中流の上ぐらいでしょう。スネ夫は上流。剛田家は下の上くらいなんじゃないかな。『ドラえもん』の世界では、剛田家のジャイアンとジャイ子だけが、将来の職業に対するイメージをはっきり持っています。二人とも広義のアーティスト志望なのが面白い。

――よく指摘されますが、ジャイアンは映画になるとキャラがだいぶ変わりますね。

杉田:本にも書いたんですけど、『ドラえもん のび太の大魔境』ではジャイアンの弱さがポイントになってきます。ジャイアンが自分の失敗を「男らしく」背負おうとするんだけど、それができずに一人で苦しむ。弱さを見せられず、陰で泣いている。まさに男らしさの呪縛ですよね。

 物語の中ではしずかだけが、ジャイアンの心の葛藤に鋭く反応するんですね。しずかもまた、作中では「紅一点」という役割を強いられています。『大魔境』には彼女の「お風呂問題」というのがあって、男の子たちはしずかのキレイ好きがだんだん疎ましくなってくる。そういう女の子としてのヴァルネラビリティ(傷つけられやすさ)がジャイアンと共鳴して、ふたりの友情の新たな面が見えてくるわけですね。そしてそれは全員の関係に波及していく。そういう弱さのシェアとか弱さの情報公開から再構築されていく友情が描かれた作品です。

――あと、世間では『ドラえもん』と『風の谷のナウシカ』を対比させて、ナウシカはリーダーシップがあるけれど、のび太はまるでダメだ、みたいな論調もあって。そんな単純な二項対立でもないだろうと思ったんですが。

杉田:ダチョウ倶楽部の(上島竜平を中心とした)竜平会ってありますね。ああいうリーダー像もあるなと思っていて。あまりにも上島さんがダメだから、みんなでそれをカバーして世話するうちに、自然と結束力が高まっていく。そういうリーダー像もいいんじゃないかと(笑)。みんないかにのび太くんがダメかは分かっているけど、でも嫌いにはなれない。それで各自がやるべくことをやろうとする。そこに弱さをシェアするコミュニティができていく。ナウシカみたいな超人的なカリスマがリーダーっていうのも、時には息苦しい気がしますけどね。

■男性学的なテーマが根っこにある

――ちなみに、杉田さんが批評の対象にする人や作品って、何か一貫したものがあるんでしょうか?

杉田:たぶん男性学的なテーマが根っこにあります。男として生まれたことの暴力性を何とか変えていこう、というか。良くも悪くも自己嫌悪があるから常に自分を更新していかなきゃいけないと思っているし、そういう葛藤を抱えた対象にも惹かれてしまう。宮崎駿にせよ長渕剛にせよ、もちろんのび太君も。『宇多田ヒカル論』は例外として、女性の作品をあまり論じられていないのもその辺が理由かもしれません。個人的には、いわゆるシスヘテロ男性はフェミニズムから率直に学ぶべきだが、フェミニストを安易に名乗るべきではない、と考えています。男性問題を自分たちの問題として引き受けてちゃんと考え続けないと、根本的に間違うんじゃないかと。

――あと、批評対象に憑依する瞬間がありますよね。『長渕剛論』では、ライブレポートの場面で一人称が「僕」から「俺」になったり。

杉田:のび太くんやドラえもんには割と感情移入というか、憑依して論じられるけど、ジャイ子は気高いものとしてちょっと遠いというか、むしろ対峙して学ぶべき対象だったんですよね。宇多田ヒカルさんも対峙すべき対象であり、憑依して共に苦しむ対象ではなかった。逆にいえばそれが僕の限界かもしれませんけど。いずれにせよ、ジャイ子も宇多田ヒカルも気高い。

――さきほど男性学やフェミズムの話が出ましたが、それを踏まえて『ドラえもん』を読むと、また違った奥行きが生まれそうですね。

杉田:『ドラえもん』はPC的な視点から批判されることがかなり多いですね。実際に『ドラえもん』は根本的にホモソーシャルな世界でもあります。けれども、たとえば「てんとう虫コミックス」45巻を通読していくと、作中には様々な変化がみられる。先ほどのジャイ子の話もそうですけれど、その辺はもう少し繊細に読み解いていいとは思います。

 たとえばのび太君の特技は射的、あやとり、ひるねです。のび太君はつねに「男らしさ」の世界にも「女の子らしさ」の世界にもなじめずに、どちらからも弾かれてしまう。ある意味でジェンダー秩序を攪乱する存在とも言える。のみならず、生産性/無産の境界線も揺るがせている。勉強ができないだけではなく、眠ることそれ自体が特技だ、と言うんですから。男性学と同時に、障害学から読む『ドラえもん』というのもアリかもしれない。

 たとえば原作のドラえもんは、人間の都合でのび太の面倒を押し付けられたケアロボットであり、一度は不良品として廃棄寸前でしたし、ネズミに耳を齧られて耳を失ったいわば「障害ロボット」なんですよね。このことは結構大きいと思う。しかもそれを当時のガールフレンドに嘲笑われて、トラウマを抱え、根深い女性恐怖のようなもの(その裏返しとしての過剰なほれっぽさ)を抱えてしまった。さらにドラえもんはよく「タヌキみたい」と笑われますが、それはロボット差別であり、かつ動物差別(スピーシズム)なのかもしれない。藤子F先生がそうした複雑なキャラクターとしてドラえもんを造形したこと、キャラクターたちを徹底して愛したことを考えるとき、たかだか数十年新しい時代に生まれた自分が、先生よりも人権や差別意識に敏感だとは全く思えません。

 たぶん数十年もしないうちに、創作における障害者排除も、動物差別も、ロボット差別も、もっとずっとラディカルに批判されていくでしょう。これは皮肉ではなく、もっとそうなってほしいと思います。たとえばそもそも、ロボットに人間のケアを押し付けることがおかしいのかもしれないし、紅一点のみならず、障害者不在の世界観もおかしいのかもしれません。考えてみれば22世紀の未来が「人権」(人間の権利)だけですむとは思えない。そして同時に、世の中には複合差別があることを前提とするならば、「今を生きている人間のほうが差別に敏感で、昔の人間は差別に鈍感で疎かった」と簡単に言えるのかどうか、やはりそんなに簡単なことだとも僕には思えません。

――藤子・F・不二雄先生が亡くなったあとのドラえもん映画には、藤子先生の思想みたいなものって引き継がれていると思いますか?

杉田:もっとそうなってほしいとは思いますね。もちろん、藤子・F先生をそのまま真似すればいいという意味ではなく、後発者として先生の思想を受け止めて、批評的にアップデートすること、それがドラえもん映画を新しく作る人の使命だと思うんです。懐古厨と言われるかもしれないけど、藤子・F先生が作り続けたドラえもん映画は本当に神がかっていたので、当時を知らない若い人たちにもそのすごさを伝えていく義務もあるだろう、と本音でいえば思っています。

――繰り返しになりますが、その、「ドラえもんマインド」の要点ってなんでしょう?

杉田:人間の根本的な無力さとかダメさとか弱さを引き受けて、それでも悲観的になりすぎず、絶望しすぎず、かといって楽観的にもならず、ほんの少しでも状況を良くしようとしていく。そういう精神を若い人や子どもたち、未来に向けて継承し、託していく。そういう悲観とも楽観とも言えない楽天的なモードみたいなもの。それが『ドラえもん』ワールドの魂であり、ドラえもんマインドなんじゃないか。そんなふうに考えています。(土佐有明)

土佐有明

最終更新:3/28(土) 10:07
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