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明治の野球界で起こった下克上 私学の雄「早慶」の台頭で“一高一強時代”の終焉

3/28(土) 5:58配信

デイリー新潮

にっぽん野球事始――清水一利(7)

 現在、野球は日本でもっとも人気があり、もっとも盛んに行われているスポーツだ。上はプロ野球から下は小学生の草野球まで、さらには女子野球もあり、まさに老若男女、誰からも愛されているスポーツとなっている。それが野球である。21世紀のいま、野球こそが相撲や柔道に代わる日本の国技となったといっても決して過言ではないだろう。そんな野球は、いつどのようにして日本に伝わり、どんな道をたどっていまに至る進化を遂げてきたのだろうか? この連載では、明治以来からの“野球の進化”の歩みを紐解きながら、話を進めていく。今回は第7回目だ。

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 1890(明治23)年5月に起こった日本野球初の大乱闘である「インブリー事件」以降も、依然として一高の天下は続いた。その強さからおごり高ぶった一高は他の学校から試合を申し込まれた時にも、相手が礼を尽くした対応をしなければ絶対に受けなかった。たとえば、慶應が挑戦状を送ってきた時も、その文面に自分たちに対する尊敬の念が感じられないといってつき返しているほどだった。

 そんな一高を何としてでも倒したい私学、中でも早稲田、慶應の両校は中学から実力のある球児を入学させ、次第にその差を縮めていった。特に1902(明治35)年に学制が改正され、それまで5年制だった高等中学が3年制の中学(現在の高校に相当)に切り替わったことも大きく影響した。その結果、4、5年生が大学の教養学部に吸収されるようになると、野球の名門中学の人材は一高には集まらないようになり、一高時代はとうとう終わりを告げることとなったのである。

 そして、圧倒的な力を誇っていた一高を初めて破ったのが早稲田だった。早稲田の前身である東京専門学校が設立されたのは1882(明治15)年のこと。野球部は早稲田大学と改称する前年の1901(明治34)年に創部されたが、設立当初、同じ大学はおろか格下の中学にまで負けるというほどの弱体ぶりだった。

 しかし、中学から有力選手を入部させたうえに練習に次ぐ練習でチーム力をアップさせた早稲田は、一高に次ぐ実力を誇っていた波羅大学(現在の明治学院)や学習院を撃破、ついには1904(明治37)年6月1日、一高をも破るまでに成長した。

 その前年の1903(明治35)年、慶應の挑戦を受けた一高は相手をなめていたのか、1番・投手、2番・捕手、3番・1塁手、4番・2塁手、そして、9番・右翼手と守備位置ごとに機械的に並べた打順を組んできた。それでも、ベストオーダーを組んだ慶應を13対10で退けている。

 それに味をしめた一高は、次の早稲田との試合でも慶應戦同様、守備順のオーダーを組んだが、これに対して早稲田も意地を見せ、一高と全く同じように守備順のオーダーで対抗した。

 試合は追いつ追われつの白熱した戦いとなった。そして、ついに早稲田は9対6で初めて一高から勝利を得たのだった。そして、早稲田勝利の翌日、今度は慶應が大接戦の末に11対10で一高を破り、前年の雪辱を果たした。2日間にわたって早慶に連敗したさしもの王者・一高もこの後は一気に弱体化し、野球界は早稲田・慶應の2強時代へと移っていくのである。

 私学の両雄、早稲田、慶應で野球が始まったのは、慶應が1884(明治17)年ごろ、早稲田は1897(明治30)年のことだったと伝えられている。単に始まった時期だけを比べれば、慶應のほうが13年ほど早いことになる。

 慶應に野球を伝えたのはアメリカ人教師ストーマーといわれ、当初は日本で初めての野球チーム、新橋アスレチック倶楽部と一緒に練習したりしていたが、その活動が本格的になったのは1888(明治21)年、アメリカ留学から帰国した岩田伸太郎が練習に参加するようになり、岩田を中心とした「三田ベースボール倶楽部」が発足してからだ。その後、1892(明治25)年に慶應義塾体育会が創設された際に野球部も正式に創部されたが、これは現在の東京六大学の中ではもっとも古い。

 一方の早稲田は先に述べたように1897(明治30)年に始まったが、この時、中心になってベースボール部を作ったのが押川方存、のちに「海底軍艦」、「空中大飛行艇」などの作品で冒険小説家として文壇に名を成す押川春浪である。押川は生来のスポーツ好きであり、野球にかかわるようになってからは「冒険世界」や「運動世界」などの雑誌に野球の記事を寄稿。野球の発展に大きく貢献している。

 しかし、押川がベースボール部を創設した当時の早稲田には練習場所がなく、また、野球道具も満足に揃っていなかったこともあって本格的なチームとはならず、ほとんど名前だけのものだった。そんな早稲田が野球部を創設、本格的に歩み出すのが前身の東京専門学校時代の1901(明治34)年。ライバル慶應から遅れること9年後のことだった。

【つづく】

清水一利(しみず・かずとし)
1955年生まれ。フリーライター。PR会社勤務を経て、編集プロダクションを主宰。著書に「『東北のハワイ』は、なぜV字回復したのか スパリゾートハワイアンズの奇跡」(集英社新書)「SOS! 500人を救え! ~3.11石巻市立病院の5日間」(三一書房)など。

週刊新潮WEB取材班編集

2020年3月28日 掲載

新潮社

最終更新:3/28(土) 5:58
デイリー新潮

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