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築城名人・藤堂高虎の赤木城 近世の城思わせる石垣や設計

3/30(月) 16:31配信

朝日新聞デジタル&[アンド]

【連載】城旅へようこそ

日本の城を知り尽くした城郭ライター萩原さちこさんが、各地の城をめぐり、見どころや最新情報、ときにはグルメ情報もお伝えする連載「城旅へようこそ」。今回は、三重県熊野市にある赤木城です。築城の名手として知られた藤堂高虎が築いた城です。戦国時代の城でありながら、石垣や設計は近世の城のさきがけともいえる工夫があるのです。

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抑止力を意識 権力誇示のための城

三重県熊野市の赤木城は、城ファンの心をつかんでやまない城だ。後に築城名人として名をはせる藤堂高虎が、1588(天正16)年ごろに築いたとされる。

赤木城は、三重県、和歌山県、奈良県にまたがる紀伊山地のほぼ中央に位置する。このあたりは浸食により地形が険しく、赤木城はわずかに開けた小盆地の丘陵を利用して築かれている。現地を訪れると、敵を寄せ付けない立地というより、むしろ包囲されているように感じるだろう。標高は約230メートルあるものの、城下から主郭までの比高はわずか30メートルほどしかない。周囲を見渡せば、南東には標高736メートルの白倉山、東には標高777メートルの玉置山がそびえ、城の背後にあたる北側にも標高500~700メートル級の山々が連なり、四方を囲まれているような印象がある。

敵に攻め込まれにくくするなら、城はなるべく標高の高いところに築いたほうがいいように思える。しかしこの城は、それだけが城造りの目的ではないことを教えてくれる。赤木城は、抑止力を意識した、権力を誇示する城だったのだ。

築城の背景が、立地の意義を教えてくれる。奥熊野は、1585(天正13)年に紀伊国に侵攻してきた羽柴(豊臣)秀吉の傘下に入り、城や寺社造営の木材の供給源として重要視された。新宮から風伝峠を超えて吉野方面に通じる北山街道が通り、田平子峠(たびらことうげ)を越えて入鹿(いるか)・本宮方面に通じる十津川街道も通っている。周辺は古くから銅などの鉱山資源に恵まれ、入鹿では刀鍛冶(かじ)が行われ、熊野では木材が産出されていた。

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最終更新:3/30(月) 16:31
朝日新聞デジタル&[アンド]

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