日本の城を知り尽くした城郭ライター萩原さちこさんが、各地の城をめぐり、見どころや最新情報、ときにはグルメ情報もお伝えする連載「城旅へようこそ」。今回は、徳川家康の城、静岡市の駿府城です。日本一大きな天守台のあるこの城は、家康が「大御所政治」をした場所として知られますが、近年の発掘調査で、新たな事実が次々にわかってきました。
駿府城(静岡市)で、「駿府城跡天守台発掘調査」が行われている。2016(平成28)年度から2019(令和2)年度の4年度は、掘削・測量作業を実施。その成果の数々が、駿府城の解明のみならず、全国の城の歴史を解き明かす上でも大きなものとなり関心を集めている。調査成果の概要をレポートするとともに、改めて駿府城の魅力と価値を考えてみたい。
「駿府城は誰の城か」と聞かれれば、ほとんどの人が「徳川家康の城」と答えるのではないだろうか。江戸時代初期、将軍職を譲った家康が大御所政治を行った城だ、と。もちろんその通りなのだが、実は、駿府城には別の顔もある。今回の天守台発掘調査によって、その実態に大きな光が当たることとなった。地下から掘り起こされた天守台に隠されていたのは、戦国時代末期から江戸時代初期にかけて、時代のうねりの中で駿府城が進化を繰り返してきたという事実。当時の城の基軸ともいえる、先進性と社会構造を反映する城であったことが明らかになった。
まずは、駿府城の歴史を確認しておこう。天守台を知る上でポイントとなる時代区分は、大きく三つある。まず、豊臣秀吉の治世における家康の在城期間だ。1582(天正10)年に武田氏が滅亡すると、家康は織田信長から駿河を与えられ、本能寺の変を経て、5カ国(駿河、遠江、三河、甲斐、信濃)を領有する大大名となった。1584(天正12)年の小牧・長久手の戦いを機に羽柴(豊臣)秀吉に臣従。1586(天正14)年に駿府へ拠点を移し、駿府城の築城に着手した。
次は、1590(天正18)年からの中村一氏の在城期間である。1590年、秀吉は北条氏を討伐すると、家康に北条氏の旧領である関八州(武蔵、伊豆、相模、上野、上総、下総、下野の一部・常陸の一部)への移封を命じた。江戸に移った家康に代わり駿河に入ったのが、秀吉の家臣である一氏だった。駿府城主となった一氏及び後継の一忠は、1600(慶長5)年の関ヶ原の戦いの直後まで約10年間、駿府城に在城した。
そして最後が、江戸時代初期に家康が大御所政治を行った期間だ。家康は1605(慶長10)年、秀忠に将軍職を譲ると駿府城に戻り、1607(慶長12)年から駿府城を大改修。1616(元和2)年に75歳で亡くなるまで在城した。駿府城の築城は、天正期(戦国時代末期)の家康の築城と、慶長期(江戸時代初期)の家康による大改修の、大きく2回といってよいだろう。
最終更新:4/6(月) 16:32
朝日新聞デジタル&[アンド]

































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