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“コロリ ” 対策も「手洗い」「換気」が重要だった:幕末から明治にかけてのコレラ大流行と予防法

4/6(月) 17:39配信

nippon.com

土師野 幸徳(ニッポンドットコム)

新型コロナウイルスの感染拡大により、世界中で衛生管理の徹底や外出自粛などが叫ばれている。江戸後期から明治期の日本で発生したコレラの大流行では、どのような社会状況で、どんな対策が奨励されたのか?

開国時期と重なったコレラのまん延

日本では6世紀に天然痘(疱瘡)が大流行し、その後も度々感染が広がり、はしかの流行も発生した。しかし、ペストや黄熱病などが引き起こしたような感染症のパンデミック(世界的大流行)には、19世紀まで巻き込まれていない。極東の島国で最初に猛威を振るったのが、江戸時代後期のコレラである。

コレラはガンジス川流域の風土病であったが、英国がインドを植民地支配し、アジアでの貿易を展開していた19世紀前半から全世界に広がっている。激しい下痢と嘔吐を繰り返し、脱水症状によって死に至るコレラが、日本で最初に流行したのは文政5(1822)年。中国(清、しん)経由で沖縄、九州に上陸したと考えられている。本州に渡り、西日本で大きな被害を出した後、東海道沿いを東進したが、江戸には至らなかった。

100万人以上が暮らす世界最多の都市人口だった江戸の町に、コレラの脅威が及んだのは安政5(1858)年。感染源はペリー艦隊に属していた米国艦船ミシシッピー号で、中国を経由して長崎に入った際、乗員にコレラ患者が出たと伝わる。この年に、日米修好通商条約を含む5カ国との不平等条約が結ばれ、鎖国政策を続けて来た日本では国民に不安が広がっていた。外国から伝来した感染症の流行が重なり、大きな恐怖心を生んだことが想像できる。

江戸の死者数は約10万人とも、28万人や30万人に上ったとも記録が残り、本サイトでもおなじみの浮世絵師・歌川広重も命を落とした。コレラは当時の物流の中核だった廻船(かいせん)によって、東北などの港町にも運ばれた。江戸の死者数のピークが安政5年だったために流行年とされるが、翌年の被害の方が甚大だった地域も多い。

3度目の大流行は文久2(1862)年。江戸時代の流行では最も多くの犠牲者を出したというが、知識人や文化人が多く住む江戸での被害が大きかった安政のコレラの方が史実として有名だ。

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最終更新:4/6(月) 17:39
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