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哲学的に考察する「体罰」「暴力」にどう向き合うか

4/9(木) 7:00配信

Book Bang

 いじめを含めた、子ども同士の暴力、体罰など教師から子どもへの暴力や暴言、教師間の暴力。これらは長年にわたり、社会問題となっているが、なかなか改善の兆しは見られない。

 スポーツ指導や学校での暴力といえば、2012年12月、指導の延長上に体罰や暴言が繰り返され、バスケットボール部のキャプテンが自殺した、大阪市立桜宮高校事件は記憶に新しい。大阪地裁は、傷害や暴行をしたとして、元顧問に懲役1年、執行猶予3年の有罪判決を下した。

 これらはあくまでも法的評価だ。哲学として考えた場合、指導上、暴力が必要だったのかは、裁判では答えが出せない。

 著者の松田は、自身が受けた、スポーツ指導場面での暴力に嫌気がさし、中学校の野球部や野球クラブを辞めた。高校のバレーボール部でも体罰を目撃する。

 しかし、暴力を安易に批判はせず、「人間は暴力的存在である」との立場を表明する。これは虐待などでの親子関係、DVのような男女間の支配関係に見られる心理を理解する上でも役に立つ視点だろう。

 本書では、暴力が内包された存在として、人間はどのように社会を営むべきかを考えようとする。私も、子どもや若者の「生きづらさ」を取材しているが、そこには常に暴力や暴力性が付きまとう。

 他者に対する暴力性は犯罪やいじめにつながる。加害者にも話を聞いたことがある。話を分析すると、コミュニティの中で、自分の居場所を確保し、維持するための装置として暴力は働くようだ。

 少年犯罪の集団や、薬物依存などでも見られる図式だが、ほかの構成員もその暴力性に同調し、いじめや暴力を肯定する。そのことでメンバーとしての協調性を身につけようとする。

 つまり、自分自身の正当性を担保するために暴力を使うのだ。一定の規律を備えた、よきメンバーになろうとする力が暴力性を支える。指導者が体罰を使うのも、犯罪集団のリーダーであり続けようとする心理と似ている。

 一方で、自分に対する暴力性は自傷行為や自殺につながることもある。ただ、そこには暴力の被害体験があったケースが多い。座間男女9人殺害事件の被告と連絡を取っていた10代の女性は、性暴力の被害体験があった。暴力を受けた結果は、自身に対する暴力性に返ってくることがあるのだ。

 本書は、スポーツ指導や学校における暴力性がテーマだが、関係者でなくても、自身の中にある「暴力」を見つめるきっかけになるだろう。

[レビュアー]渋井哲也(ライター)

新潮社 週刊新潮 2020年4月9日号 掲載

新潮社

最終更新:4/9(木) 7:00
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