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『花子とアン』-村岡花子と『赤毛のアン』の縁とは? 翻訳を手がけた理由

2014/5/6(火) 10:40配信

THE PAGE

 社会現象にもなった『あまちゃん』、その『あまちゃん』をさらに視聴率で上回った『ごちそうさん』。話題作2作の後釜なら、さぞやプレッシャーもあったはずだが、今春始まったNHKの朝の連続テレビ小説『花子とアン』は毎週20%超の視聴率を続けている。

 原案は『赤毛のアン』を日本で初めて翻訳・紹介した村岡花子の生涯を孫の村岡恵理が綴った『アンのゆりかご』。『ハケンの品格』『ドクターX』を手がけた中園ミホが脚本を担当した。
 小学校の教室で同級生の少年の頭を石盤で叩き、石盤を真二つに割ってしまうなど『赤毛のアン』の名場面を巧みにストーリーに織り込んでマニアへのサービスも怠りなく、アンの故郷カナダから山梨へと移り変わるタイトルバックのように、アンと花子の人生が綾織りのように交錯する趣もある。

カナダ人宣教師が「友情の証」として花子に原書を託した

 ドラマは昭和20年(1945年)5月、大森・蒲田一帯を襲った空襲で燃え上がる町中を、幼な子の手を引いた花子が逃げまどうシーンに始まった。このとき胸に抱えていたのが『赤毛のアン』の原書。昭和14年(1939年)、日本と米英の関係が冷え込むなか、教文館でともに編集に携わったカナダ人女性宣教師が帰国の際に「友情の証」として花子に翻訳を託したものだ。
 以来、花子は灯火管制下、言論統制のもとで密かに「敵性語」の翻訳を進め、訳し終えたのは戦争終結後。そして昭和26年(1951年)、『風と共に去りぬ』の翻訳で成功をおさめ、それに次ぐ作品を探していた三笠書房編集者の目にとまり、『赤毛のアン』出版が決まった(刊行は翌年の昭和27年)。

『赤毛のアン』の原題はANNE of GREEN GABLES(緑の切妻屋根のアン)。
 当初花子が考えていた邦題は「窓辺に倚(よ)る少女」だったが、担当編集者が「赤毛のアン」を提案。花子は一度は「あまりに直接的」と拒否したものの、昭和7年(1932年)生まれで20歳になる養女みどりが強力に推したことから「読者となる若い人の感覚」を尊重して「赤毛のアン」に決めたそう。ちなみに、名づけ親となった編集者は、後に北海道開拓の裏面史発掘などに足跡を残した民衆史家の小池喜孝(2003年没)だ。

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最終更新:2015/8/23(日) 4:03
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