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大阪の陣、天下取りを争った2丁の鉄砲 「鑑定団」澤田さんの資料館で歴史的対決を再現/大阪

2014/6/21(土) 12:00配信

THE PAGE

 難攻不落の天守閣に向けられた巨大鉄砲。一方、馬上から敵方総大将のいのちを狙う小型鉄砲。徳川方と豊臣方が戦った「大坂の陣」から400年の節目に、歴史的鉄砲対決が、テレビ鑑定番組でおなじみの鑑定家が大阪に作った私設ミュージアム「真田幸村公資料館」で再現され話題を呼んでいる。戦国の世に別れを告げる大戦は、異なる進化を遂げた鉄砲が演じるハイテク戦争でもあった。

城内の女性たちを震えあがらせた大鉄砲

 この私設ミュージアムは、真田幸村公資料館(大阪市東成区大今里南)。市井の砲術研究家で、人気テレビ番組「開運!なんでも鑑定団」の鑑定家としても知られる澤田平さんが1日に開設した。

 澤田さんは家伝の古式砲術「尾州稲富流」を再興したうえ、長年、大阪城真田鉄砲隊を率いて火縄銃演武を披露するなど、古式砲術再評価への道を探ってきた。大坂の陣400周年を記念し、大坂の陣や幸村ゆかりの所蔵品を集めて、一般公開に踏み切った。大阪の陣が鮮明によみがえる2丁の鉄砲に、話題の照準をしぼろう。

 1丁目は徳川方が使用したとされる大鉄砲。長さ1.7メートル、口径2.5センチ、重さ30キロ。大坂冬の陣で大坂城を取り囲んだ徳川方が、堀越しに天守閣へ向けて発射した。館長を務める澤田さんが話す。「徳川家康公が滋賀の鉄砲鍛冶の名工に命じて製造させたもので、命中度を高める照準装置を併用した可能性もある。近代兵器と比べると破壊力こそ小さいものの、天守閣への正確な着弾は、城内にたてこもる女官たちを震えあがらせるには十分だったでしょう」

大坂城は難攻不落とされてきたが、よもやの天守閣被弾が城内の混乱と不安をかきたて、豊臣方は和睦へ傾斜していく。歴史を動かした1丁といえようか。

あと1歩で家康を撃ち損じた小型鉄砲

 もう1丁は幸村が愛用したと伝わる「馬上宿許筒(しゅくしゃづつ)」。全長約60センチの小型鉄砲で、徳川方の大鉄砲とは対照的にミニサイズながら、同館最大級のお宝展示品だ。冬の陣に続く夏の陣。豊臣方が総崩れする中、幸村がわずかな手兵とともに家康本陣へ攻め込んだ。幸村の奇襲にあわてふためいた家康に、2度までも自害を覚悟させたという本陣突撃武勇伝は、幸村ファンならずとも、よく知られるところ。このとき幸村が手にしていたのが、馬上宿許筒だったという。
 
 「幸村は単身、家康の面前に迫り、馬上宿許筒を突き付けた。しかし、狙撃しようとした瞬間、敵兵に攻撃された騎馬が動揺したため、銃を落としてしまう。馬上宿許筒は家康を撃ち損じた銃です」(澤田館長)
馬上から狙撃するという西部劇まがいの離れ技が、はたして可能だったのか。
「馬上宿許筒は半自動の速射連発銃で、省力化や自動化技術の結晶です。着火装置に改良を重ねて弾倉を付けることで、8発の弾丸を10秒おきに発射できた。手綱を握る手を軽く支えにすれば、馬上でも連射が十分可能だった。真田流砲術を受け継ぐ幸村公が九度山に幽閉中、各地に点在する協力者と連絡を取り合い、ひそかに開発したのではないか」(澤田館長)

 あと1歩で家康を撃ち損ね、歴史を変え損ねた1丁だ。大坂の陣が終わると、戦利品として紀州徳川家が継承。第2次世界大戦後、米国へ渡っていたが、澤田さんがコレクターと交渉して里帰りが決まった。

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最終更新:2014/6/27(金) 10:58
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