ここから本文です

阪神淡路大震災20年・震災を伝えた桑原征平アナ ── 自宅半壊も取材で知った「人の温もり」

2015/1/15(木) 12:55配信

THE PAGE

阪神淡路大震災取材時のことを語る桑原征平アナ。文中の【動画】リンクで水の大切さを語る征平アナの姿も(少し下へスクロール) THE PAGE大阪

 「阪神淡路大震災の取材を通して『人の思いやり』を知った」と語るのは、「征平さん」の愛称で知られる元関西テレビの桑原征平アナウンサー(70)。かつては「おはよう!ナイスデイ」など全国ネットで司会もしていたが、どちらかといえばバラエティ色の強いアナウンサーだ。しかし、この震災で兵庫県西宮市の自宅は半壊。直後から被災地での取材に入り、復興をテーマにした自身の番組の取材を続けた。そして、その取材を通して知った「人の温かい気持ち」は今でも忘れられず、講演会などでその様子を伝え続けている。

【動画】桑原征平アナウンサー「水」の大切さを語る。震災から20年「あの苦しみを忘れている人が多い」

自宅半壊も取材を続けたあの日

 1995年1月17日、征平アナは鞍馬温泉ロケを控えていたため、京都府内にある母親の実家に泊まっていた時に大きな揺れを感じた。部屋の柱時計が落ち「これで済んだわ」と思っていたら、兵庫県西宮市内にある自宅にいた息子から「みんな無事やけど、家がガタッとなってつぶれてるで」という連絡が入った。

 大きな地震に自宅のことなど、気にかかることがいっぱいだったが、予定通りロケを行った。そして、帰る途中は停電のため信号が稼動せず各地で大渋滞。やっとの思いで帰ると、自宅の玄関アプローチが落ちて、家が斜めになっていた。家族も近くの学校へ避難していた。

 翌18日、会社から「西宮北口に集合して」という連絡が入った。カメラ隊と片っ端から歩いている人へのインタビューを行った。同時にこれが、長い震災取材、そして「人の思いやり」の数々を目の当たりにする日々の始まりでもあった。

「人の温もり」知った取材の数々

 神戸を歩いていた時、住吉駅の前で百人くらいはいようかという行列を見つけた。それは3台の「公衆電話」の前だった。家の電話はつながらないし、当時は携帯電話も一般的なものではなかったため、こういう光景がみられた。

 そんな時、1人の女性が電話を利用後、再び列に並びなおす光景を見かけた。その女性が気になり話を聞くと、前月に300枚の年賀状を出したものの、それだけの電話をかけるのは大変。そこで、親しい東京の親せきに電話をかけ「自分たちが無事やということをたくさんの人に知らせてほしい」と話したという。

 ただ、後ろの行列を考えれば長い時間通話するわけにはいかない。なるべく通話を早く終わらせ、再び列に並ぶということを繰り返した。そしてそれは、その女性だけでなくみんなが「譲り合いの精神」で同じことをしていたという。「私らって、いつも電車に乗る時でも列を抜かしたりする光景を見たりしてたけど、あの時は誰ひとり抜かしたりなどトラブルはなかった」と振り返る。

 道路が寸断され、震災発生から間もないころは電車の線路を歩いて移動する人の姿も多く見られた。しかし、線路も途中で落ちている光景もあるなど、それは大変なものだった。食べ物を買おうとしても、売っている店などない。そんな中、阪急電車の線路で「これをよかったらたべてください」と飲み物やパンを置いている光景を何度が見かけた。

 ある男性が、パンや新しい飲み物を置こうとしていたときに話しを聞いた。男性に理由を聞くと「自分は電車が通れる駅に着いたら、時間をかけずに大阪へいけるし、そこなら持っているお金を使うこともできてパンとかも買える。困っている時は助け合えればと思って」と答えたという。

 西宮北口駅前で会った50歳くらいの男性に声をかけた。聞けば、宮城県仙台市から駆けつけたという。「ちょうど(当時の)自分と同じくらいの年の人で、会社に頼んで2週間の休みを取って伊丹空港から梅田へ出て、西宮北口へ来たと言うて。テレビで神戸の様子をみて、いてもたってもおられんようになって来てくれたいうてました」

 この人のように、奮闘するボランティアの姿を何度も取材することになるが、そのたびに「もし自分やったら仕事をおいてまで行けるやろうか。この気持ちにほんま感謝」と今でも忘れられない。

 また、局の仲間から「被災地で倒壊した店などで窃盗が起きている」といった情報も聞いていたが、こうした光景を見続けていた征平アナには、そうした出来事が信じられなかったという。

1/2ページ

最終更新:2015/1/23(金) 16:16
THE PAGE