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共存か激突か ── 最終決戦「大坂の陣」までの軌跡を辿る「豊臣と徳川」展

2015/3/29(日) 10:27配信

THE PAGE

 大坂の陣400年記念特別展「豊臣と徳川」が、大阪市中央区の大阪城天守閣で開催されている。豊臣、徳川両家は激突するしかなかったのか。共存は不可能で、豊臣家の滅亡は回避できなかったのか。豊臣と徳川の最終決戦に至るまでの軌跡を振り返ることで、大坂の陣の意義をより深くとらえることができそうだ。

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意表を突く秀吉の人身掌握術

 織田信長が明智光秀に討たれる本能寺の変(1582年)から、関ヶ原の戦い(1600年)を経て、大坂夏の陣(1615年)に至る30数年間を、連続した時間のつながりとしてクローズアップ。信長亡き後の覇権を争う豊臣と徳川の関係性の変遷を時系列で分析し、どんな経緯で大坂の陣へ突入したのかを、貴重な史料で辿りながら検証する。

 徳川家が豊臣政権下での安泰を望んだ時期もあれば、豊臣家が徳川政権下で存続を模索した時期もあった。「対立と臣従」「豊臣政権の中枢にいた家康」「秀吉の死と関ヶ原合戦」「緊張と融和の戦間期」「激突大坂の陣」の5つの時代に分類し、展示が構成されている。

 信長の後継者争いに一歩先んじた秀吉は1586年、家康に服属のしるしとなる上洛を求める。その際、家康が上洛を承知したのは、秀吉が母の大政所を人質として家康側に差し出したからだと言われてきたが、家康直臣が書きつづった「三河物語」によると、真相は違う。

 家康の上洛の意志を確認した秀吉が、「あなたも不安だろうから、こちらも人質を出しましょう」と提案したという。跡部信大阪城天守閣主任学芸員は「秀吉は家康に対して優位な立場にあった。『母を人質に』は意表を突く演出で、家康は『それはありがたい』と受けざるを得ない。秀吉一流の人心掌握術だった」と読み解く。「対立と臣従」時代のワンシーンだ。

決戦へ導く「秀頼の成長」と「家康の老い」

 翌87年、秀吉が関東の紛争調停を家康に命じた書状が残る。秀吉が九州攻めに出陣する際、駿府に留まっている家康に対し、北条氏と周辺領主たちとの紛争を調停し地域の混乱を鎮める大役を任せたものだ。「対立と臣従」期から「豊臣政権の中枢にいた家康」期へ移行するが、この時点でも秀吉優位は動かない。

 「秀吉が家康を政権の中枢に迎え入れたようにみえるが、いつ失脚させられるか分からない家康こそ、必死。家康を取り込んで押さえつける秀吉のしたたかな戦略だ」(跡部主任学芸員)

 98年、秀吉死去。その直後に書かれた石田三成自筆書状が展示されている。秀吉が定めた五大老五奉行体制の下、奉行の三成が大老の宇喜多秀家に対し、大老首班の家康邸で開く合同会議への出席を促す内容だ。家康の存在感が増大しながらも、秀吉の遺言に従い、合議制が守られていた実情をうかがいしれる。

 秀吉ゆかりの実力者前田利家が、家康とともに実質的には二大大老の重責を担っていたが、利家の死去に伴い、家康のワンマン体制へ。1600年、家康は関ヶ原の戦いを仕掛ける。家康は秀吉の遺児秀頼を守るための聖戦として、豊臣恩顧の大名たちに徳川方への結集を呼びかけ勝利した。

 関ヶ原の一戦後、豊臣、徳川の両陣営で、対立しつつも共存の道を探るための駆け引きが続く。しかし、決定的な問題が徳川を襲う。「秀頼の成長」と「家康の老い」だ。 

 「秀頼は祖父である浅井長政から立派な体格を受け継ぎ、父秀吉譲りの人当たりの良さで人望が厚い。家康は自身が死んだら天下の実権を秀頼に奪われかねないと焦りを強め、徳川幕府の継続安定を求めて、豊臣との最終決戦に臨むことを決意した」(跡部主任学芸員)

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最終更新:2015/3/29(日) 10:27
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