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「与力」「阿波座」地名の由来でひも解く大阪人の働き方

2015/6/27(土) 9:00配信

THE PAGE

 一度ならぬ町名変更のピンチをくぐり抜け、生き残ってきた大阪の地名たち。百戦錬磨の地名は、地層のように積み重なった大阪の歴史の一端を、現代人に伝えてくれる。古来より大阪人はどのように働いてきたか。与力町、阿波座、天下茶屋、晴明通。大阪市内の地名の由来をひもときながら、大阪人の働き方を探ってみよう。

「事件や!」の一報で現場へ急行

 時代劇の世界へいざなってくれる町名が、大阪市北区に残っている。「与力町」に「同心」。江戸期、大坂町奉行所の主力官僚である与力や同心が屋敷を構える武士のまちだった。官職名がそのまま町名として受け継がれた珍しい事例だ。幕末、民衆救済を掲げて乱を起こした与力大塩平八郎の役宅も、ご当地にあった。

 江戸期の大坂は「天下の台所」と呼ばれ、町人たちが活発な経済活動を展開していた。一方、町奉行所の任務は犯罪捜査だけではない。警察と行政、裁判所を兼ねた総合官庁の役割を果たしていた。そのため、商いに励む町人や近郊の村を代表する庄屋などは、犯罪が絡んでいなくとも、行政上の申請や訴訟などで、町奉行所と接する機会が多かった。

 交渉事を有利に進めるには、官僚人事の掌握が欠かせない。武家町の一角に人事情報専門出版社が編集部を開設し、官僚の役職や住所などを網羅した人事情報誌を定期的に発行していた。最新人事を速報する情報誌を、奉行所周辺の宿屋が大量に購入。得意先の町人や庄屋たちに顧客サービスの一環として、無料で提供していたと考えられる。

 町人たちは情報誌を開いて担当者を確認しながら、訴訟対策などを思案したことだろう。江戸期から続く寺院が今もいらかを連ねる落ち着いた街並みに、武家町の面影を感じ取ることができる。

隣国に負けるな「阿波座」VS.「土佐座」

 西区にある阿波座は徳島ゆかりの地名で、地下鉄の駅名にもなっている。伝統に依存しない新興市場はリスクが高い半面、成功の果実も大きい。ひと旗あげようと地方から大坂へ進出する新規参入組が相次いだ。天下の台所ベンチャーの一翼が、徳島商人たちだった。

 豊臣政権時代、当時の阿波藩主蜂須賀家の大坂屋敷を拠点に、徳島商人たちが商いを手掛けていたことから、ご当地を阿波座と呼び始めたとの説が有力だ。江戸期を迎えると、徳島産の藍染めの藍、木材、砂糖などが評判になった。

 近くには高知出身の商人たちが集結していたエリアがあり、土佐座と呼ばれていた。隣国に負けるなと、しのぎを削り合ったのではないだろうか。商魂たくましい大阪商法とは、特定の元祖がいる商法ではなく、さまざまな地方出身の商人たちが厳しい商戦を通じて蓄積したノウハウを、融合して磨きあげた懐の深い商法だった。

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最終更新:2015/6/27(土) 9:00
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