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慰霊碑の下に眠る400の魂 それを守り続ける、一人の被爆者の物語

2016/5/27(金) 8:10配信

BuzzFeed Japan

原爆に負けたくなかった

母親はその後も医療品を販売して、生活を切り盛りした。

「お袋は一切愚痴を言わず、必死で働いてたね。弱音も吐かんかった。原爆で苦労したと言って、負けたくなかったんでしょう。人間が原爆に負けたとは、言いたくなかったんじゃないかな」

再婚もすることなく、女手一つで2人の子どもを育てあげた母親は、2011年に、93歳で亡くなった。

三原さんは定年を迎えてから、町内の被爆者らでつくる「吉田町原爆被害者の会」の役員になった。慰霊塔にかかわるようになったのは、それからだ。

「驚きましたよ、こんなところに、数百人の方のお骨が埋まっているなんて」

三原さんの言う通り、どんな被爆者がどこに埋められているのか、その全容を把握している人はいない。

誰ともわからぬ被爆者たち

いったい、ここには誰が眠るのか。地元の図書館で、郷土史料をめくった。

この地域に原爆で傷ついた人たちがやってきたのは、1945年8月6日の昼過ぎだった。はじめは自分たちで列車に乗れる人たちが地元に帰って来ただけだったが、夕方にかけて、トラックで次々と、誰ともわからぬ重傷者や遺体も運び込まれるようになった。

夜までに町に運ばれたのは270~280人。役場や婦人会、そして女学生などが救護に総動員されたが、翌7日朝にはその数は400人に膨らんだ。食料も医療品もろくにない中、できることも限られていたという。

「薬は油薬を塗るだけでほかに処置はなく、ただうちわで蝿をあおったり、うじをとったり、風を送るだけであった」(高田郡史より)

一方で、死者は増えるばかり。町の火葬場はすぐに満杯となり、畑に臨時の焼き場が設けられた。空襲の目印になることを恐れ、荼毘にふすのは決まって日の昇っているうち。火葬に使う藁や木が足りなくなるほどのペースで、遺体が運び込まれていった。

最終的に、地域に運び込まれた人たちは800を超えるとされ、そのほとんどが亡くなったという。正確な数字はわかっていない。出自がわかる人たちは、骨となりながらもそれぞれの家へと帰ったが、半数の人たちの遺骨はそのまま、町の各所に埋められた。

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最終更新:2016/5/27(金) 13:47
BuzzFeed Japan