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ソ連は調印を拒否 日本が主権回復した「サンフランシスコ平和条約」の裏側

2016/12/8(木) 13:00配信

THE PAGE

 終戦から71年経過しましたが、いまだに解決していないのが、不法占拠されたままとなっている北方領土の問題です。12月15日にはプーチン大統領が来日し、山口県長門市で首脳会談が行われます。ことしは、平和条約締結後に歯舞群島、色丹島の引渡しを決めた1956年の「日ソ共同宣言」からちょうど60年の節目になりますが、平和条約や領土交渉の進展はあるのでしょうか。

もっと知りたい北方領土

 あらためて、日ロ間にはどのような領土をめぐるやりとりがあったのか。歴史を振り返ります。

日本が主権回復したサンフランシスコ講和会議

 第2次世界大戦敗戦から6年後の1951(同26)年9月、米国サンフランシスコで講和会議が開かれ、日本と連合国各国の間で平和条約が調印されました。この条約で連合国による占領が終了し、日本は主権を回復します。そして領土や賠償についても決められました。そのとき、北方領土はどのようになったのでしょうか。

平和条約に書かれた「千島列島」放棄

 サンフランシスコ平和条約は北方領土に関し、「日本国は、千島列島並びに日本国が1905年9月5日のポーツマス条約の結果として主権を獲得した樺太の一部及びこれに近接する諸島に対するすべての権利、権原及び請求権を放棄する」としています。文中の「樺太の一部」はポーツマス条約で取得した「北緯50度以南の南樺太」です。ではこの「千島列島」とはどこを指すのでしょうか。

「北方4島は含まれない」 日本政府の見解

 日ロ間の交渉を振り返っていくと、初めて法的に国境を決めた1855(安政元)年「日魯通好条約」では、択捉島以南が日本領に、ウルップ島以北の千島列島がロシア領となりました。その後、1875(明治8)年「樺太千島交換条約」で全千島列島が日本領になります。その後、第2次世界大戦敗戦まで、全千島列島が国土でしたが、日本政府は、一度もロシア領になっていない歴史的な根拠などから、この択捉以南の北方4島はサンフランシスコ平和条約のいう「千島列島」には含まれない日本領である、と主張しています。

条約調印を拒否したソ連の理由

 では、どうしてサンフランシスコ平和条約後も、ソ連、そしてロシアによる不法占拠が続いているのでしょうか。

 実は、ソ連は同条約に調印しませんでした。背景には第2次世界大戦後、米国とソ連の両大国を軸とした東西対立構造が出来つつあったことがあります。サンフランシスコ平和条約2年前の1949(昭和24)年に中国共産党政権が中華人民共和国を建国。翌50(同25)年には朝鮮戦争が勃発し、北朝鮮を支援するソ連と中国共産党政権、大韓民国を支える米英の間で、一気に関係が悪化しました。

 日本ではこうした国際情勢を受け、米国との「単独講和」論と、不法占拠中の北方領土問題なども鑑み、日本の交戦国で連合国だったソ連や1949年に台湾に移った中華民国(国民党政権)とも平和条約を締結すべきという「全面講和」論に分かれました。しかし、当時の吉田茂首相は、日本が事実上米国のみの支配下に置かれていたことから、この朝鮮戦争を講和の好機ととらえ、米国との「単独講和」で交渉を進めます。

 その結果、米英が日本を含む50カ国をサンフランシスコ講和会議に招待。ソ連は会議に出席したものの、条約調印を拒否しました。条約を認めなかった理由は、内戦状態であるとして中国が招かれず、この会議に参加していなかったことと、引き続き米軍が日本に駐留する内容だったためです。

 また、サンフランシスコ平和条約締結の同じ日、日米は安全保障条約(1952~1960年)を締結。自由主義陣営の一員として立場をより明確にしました。その結果、日本は国際社会復帰とともに、東西冷戦へ巻き込まれていくことになります。

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最終更新:2016/12/8(木) 14:21
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