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「2島か、沖縄か」日ソ共同宣言直前、領土返還で圧力かけた“ダレスの恫喝”

2016/12/12(月) 14:00配信

THE PAGE

 終戦から71年経過しましたが、いまだに解決していないのが、不法占拠されたままとなっている北方領土の問題です。12月15日にはプーチン大統領が来日し、山口県長門市で首脳会談が行われます。ことしは、平和条約締結後に歯舞群島、色丹島の引渡しを決めた1956年の「日ソ共同宣言」からちょうど60年の節目になりますが、平和条約や領土交渉の進展はあるのでしょうか。

もっと知りたい北方領土

 あらためて、日ロ間にはどのような領土をめぐるやりとりがあったのか。歴史を振り返ります。

60年前の「日ソ共同宣言」で両国の国交回復

 日本が主権を取り戻した1951(昭和26)年のサンフランシスコで講和会議が開かれた5年後、ようやく日ソ間の国交が回復しました。それが60年前の「日ソ共同宣言」です。日ソ共同宣言までにはどのような経緯があったのでしょう。そして共同宣言の中身とは何だったのでしょう。

平和条約締結後の歯舞・色丹日本返還を明記

 1956(同31)年10月19日、ソ連モスクワで日本の鳩山一郎首相とソ連ブルガーニン首相が日ソ共同宣言に署名しました。共同宣言の主な内容は「日ソ戦争状態の終了」、「外交・領事関係の回復」、そして「平和条約締結交渉の継続」と「平和条約締結後の歯舞群島・色丹島の日本への返還」です。

国連加盟に立ちはだかるソ連の拒否権

 どうして日本は日ソ共同宣言を交わす必要があったのでしょうか。

 サンフランシスコ平和条約が発効された1952(同27)年、日本は独立を果たし、ただちに国連への加盟を申請しました。しかし、安全保障理事会の審議でソ連の拒否権により加盟は否決されました。また当時、シベリアには日本兵ら約2000人が抑留されていました。東西冷戦のあおりで、サンフランシスコ平和条約の調印を拒んだソ連との国交回復は、日本にとって喫緊の問題でした。

 またサンフランシスコ平和条約に調印した吉田茂内閣が対米協調を重視していたのに対し、1954(同29)年に就任した鳩山内閣は「独立重視」の「対米自主外交」を展開。ソ連側もその前年の1953年3月に米ソ対決姿勢を強めた独裁者スターリンが死去、代わって権力を持ち始めた共産党第一書記フルシチョフが平和共存路線へ転換を図る、という日ソ両国で政権内に風向きの変化がありました

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最終更新:2016/12/12(月) 14:00
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