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真田丸・後藤又兵衛死す「道明寺合戦」の古戦場跡を歩く

2016/12/12(月) 21:00配信

THE PAGE

真田丸・後藤又兵衛死す「道明寺合戦」の古戦場跡を歩く 撮影:岡村雅之 THEPAGE大阪

 NHK大河ドラマ「真田丸」は、ついに最終決戦、大坂夏の陣に突入した。400年前の夏の陣で、豊臣方は大坂城から出撃して徳川方を迎え撃つ。大坂五人衆の一角、後藤又兵衛が、河内の小松山でいち早く徳川方と激突。善戦したものの、大軍に囲まれ討ち死にした。真田幸村(信繁)も参戦した道明寺合戦。激戦が展開された小松山古戦場跡を訪ねた。

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後藤又兵衛軍が単独で徳川方の大軍と激突

 大阪府藤井寺市の近鉄道明寺駅に降り立つ。駅前には真田六文銭ののぼりがはためき、道明寺合戦記念碑が建つ。石川を東へ渡って柏原市に入ると、小高い山が迫ってくる。山ろくが公園になっている玉手山で、かつては小松山と呼ばれ、激戦が展開された古戦場跡だ。

 1615年(慶長20)5月、夏の陣開戦時、両軍の兵力を比べると、豊臣方の5万5千人に対し、徳川方は15万5千人。大坂城の強固な堀を失い、兵力で劣る豊臣方が活路を開くには、大坂五人衆を軸とする戦略の統一と連係プレーが欠かせない。

 大和路から大坂城へ向かう徳川方の進軍を阻止するため、後藤又兵衛が同月6日、先陣を切って道明寺へ出撃。防衛線となる石川を渡って小松山に陣を構え、徳川方と全面的戦闘を繰り広げる。後藤隊はなぜ孤立し、単独で戦ったのか。

 濃霧のため真田隊など後続部隊の到着が遅れたとの説が有力だ。冬の陣の真田丸のような豊臣方の包囲網に徳川方をおびき寄せるため、後藤隊がおとりになったとの説もあるが、真相は分からない。

又兵衛と家臣の石碑が寄り添って建つ

 どんぐりを拾う子どもたちとすれ違いながら、坂道を上り山頂を目指す。山頂付近には後藤又兵衛の記念碑が建つ。後藤隊は伊達政宗隊ら徳川方の大軍と戦い、善戦したものの敗北。又兵衛も負傷した後、自害をはたす。

 又兵衛を介錯したとされる家臣吉村武右衛門の石碑が傍らで寄り添う。盟友の又兵衛を失った幸村は道明寺周辺で奮戦した後、大坂城から防衛のための帰還要請を受けて、いったん撤収。翌日、最後の決戦に挑む。

 又兵衛は幸村、毛利勝永、長宗我部盛親、明石全登と並ぶ大坂五人衆。黒田家の元重臣で、「槍の又兵衛」の猛将ぶりで知られていた。徳川家康は又兵衛の実力を怖れ、豊臣方から引き離す工作を繰り返す。しかし、又兵衛は寝返ることなく豊臣方の先鋒として戦い、華々しく散った。

 西に向いた展望台からは大阪平野が一望できる。晴れた日には遠く大阪城も確認できるという。厳しい一戦に臨む又兵衛は、どんな思いで眼下を見渡したのだろうか。
(文責・岡村雅之/関西ライター名鑑)

最終更新:2016/12/12(月) 21:22
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