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“絵になる”かわら版 農民出身、北辰一刀流女剣士の敵討に江戸っ子大興奮

2016/12/13(火) 18:00配信

THE PAGE

仇敵の背後に巨大な権力

 しかし、権力とは儚いものである。1844(弘化1)年、鳥居は見事に失脚する。裏切り行為によって水野忠邦の怒りを買った彼は、全ての公務を解かれた上、摘発された数々の不正によって、翌年には有罪の判決を受けたのである。

 その後、鳥居の手先として暗躍した茂平次も、長崎で召し取られたという情報が江戸に流れてきた。伝十郎と典膳は、仇敵の居場所を掴んで喜ぶが、獄中にあっては斬りかかるチャンスは皆無だった。

 しばらくすると、茂平次は長崎から江戸に護送されてくる。取調べが行われ、彼に下されたのは、中追放(ちゅうついほう)の刑だった。中追放とは、田畑や家屋敷を没収の上、江戸の10里四方外に追放するというものである。都心部への立ち入りはできなくなるが、遠島などに比べれば、随分と軽い刑罰だ。

 鳥居の庇護がなくなり、中追放となる茂平次。伝十郎と典膳は、獄舎から護送され、解き放たれたそのときが、ただ一度の好機であると結論付けた。

 1846(弘化3)年の8月6日、遂に茂平次が解き放たれる日がやってきた。伝十郎と典膳は、評定所から出て、籠で護送される茂平次を尾行した。そして、火除け地の護持院ヶ原に至ったとき、そこで茂平次は釈放された。

 自由の身となった茂平次は、後ろから近付いてくる武士二人を、訝しげに眺めた。その直後、怒りと緊張に身体を震わせた伝十郎が、敵討の名乗りを上げる。茂平次は、それを聞いて、ようやく全てを理解した。そして恐怖の表情が浮かんだ頃には、2人の鋭い刃が、左右から彼の肉と骨を斬り裂いていた。

 伝兵衛が闇討ちに合ってから、7年と8カ月ほど。宿願を果たしたとき、伝十郎は33歳、典膳は47歳になっていた。悪党の茂平次は、江戸の人々が忌み嫌う鳥居耀蔵の手下だった。そして鳥居は、水野忠邦が重用した人物である。この敵討は、当時における政治の頂点と繋がりを持っていた。そこに、江戸っ子たちは興奮したのだろう。

 敵討を報じるかわら版は、抜群に人気があったが、内容の信憑性は決して高いものではなかった。書かれた情報には相当いい加減なものが多く、それは今回掲載した二種についても、例外ではない。

 こういった敵討に関するものに比すると、同じく需要の高かった天災地変を伝えるかわら版は、極めて情報が正確だった。次回は、江戸時代に起きた最大級の天災、安政江戸地震に関するかわら版を紹介したい。

(大阪学院大学 経済学部 准教授 森田健司)

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最終更新:2016/12/13(火) 18:00
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