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アンプティサッカーの古城「どう上手くなるかを考えるのが楽しい」

カンパラプレス 2016/12/28(水) 19:46配信

 彼にとって「サッカー」は、人生の一部となっている。どんなかたちであれ、ボールを蹴りながら、フィールドを走り回り、相手との駆け引きを楽しむ。それは、あの4年に一度の世界最高峰の大会「パラリンピック」よりも、彼には魅力を感じる「舞台」だ。そんんなサッカーに魅せられた人生を送る古城暁博とは――。

「まさか」のパラ出場

 5歳の時に交通事故で右ひざから下を切断した古城が、義足を履きながら健常者に交じってサッカーを始めたのは、小学3年の時だった。当時は体格に恵まれていたことから、スピードもパワーも、まったくひけをとらず、義足がハンデとはならなかった。古城は「プロになる」という夢を抱きながらボールを蹴る毎日を送っていた。

 しかし中学、高校と上がるにつれて、徐々に同級生のスピードについていけないシーンが多くなっていった。

「どうしても、義足側の反応が遅れてしまうんです。頭と体が一致しない感じ。自分で走っていても、右足の太腿までは頭で描いた通りに動いているのに、その後、膝から下がついてこない。そうなると、当然、他の選手たちのスピードについていくことはできなくなっていきました」

 それでも、古城の中にサッカーをやめるという選択肢はなかった。

 そんな中、高校1年の時に突如舞い降りてきたのが「陸上選手」としての道だった。きっかけは、祖父の兄弟が東京都の障がい者スポーツセンターで勤務していたことから知り合った、現パラノルディックスキー日本代表の荒井秀樹監督との出会いだった。当初、古城は荒井監督の指導の下、クロスカントリーを始める予定だった。しかし、当時は夏のシーズンだったこともあり、トレーニングの一環として始めたのが陸上だった。

 高校ではサッカー部に所属していた古城は、サッカー部の練習を終えた後に陸上競技場へと移動し、そこで荒井監督や、荒井監督に紹介された陸上コーチの指導の下で、トレーニングをするという、「二足の草鞋」状態の生活が始まった。

 その後、小学生の時から義足を作ってくれている義肢装具士に誘われたのをきっかけに、パラ陸上の大会に出場するようになり、1年後には100メートルで日本新記録(当時)をマークした。それを機に、古城は日本を代表する義足ランナーとなり、翌2000年、シドニーパラリンピックに出場した。それは本人にとっても、「まさか」の出来事だった。

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最終更新:2016/12/28(水) 19:46

カンパラプレス