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トルシエ解任を止めた故・岡野俊一郎氏が日本サッカー界へ残した功績と提言

2/4(土) 5:30配信

THE PAGE

 サッカーの元日本代表監督で、日本サッカー協会(JFA)の第9代会長として2002年のW杯日韓共催大会を成功に導いた岡野俊一郎さんが2日午後10時56分、肺がんのため都内の病院で死去した。享年85歳。JFAから3日に発表された。

 1968年から東京12チャンネル(現テレビ東京)で放送された、「三菱ダイヤモンドサッカー」における名解説でサッカーの普及に尽力。1990年からは国際オリンピック委員会(IOC)の委員を22年間も務めるなど、日本スポーツ界の重鎮として長く活躍した。

 まだW杯に出場したことのない日本へ2002年大会を招致したのも、JFAの副会長だった岡野さんが尽力していた。その日韓共催大会で、フィリップ・トルシエ監督に率いられた日本代表は、2度目の出場にしてグループリーグを初めて突破。列島を熱狂の渦に巻き込んだが、岡野さんが下した「裁定」がなければ、まったく異なる結果に終わっていたかもしれない。

 岡田武史監督の後任として1998年9月に就任したトルシエ監督との契約は、2000年6月で見直される内容になっていた。しかし、監督を兼任していたU‐23代表こそシドニー五輪出場へ導いたものの、肝心のA代表は低空飛行が続いていた。

 何よりもエキセントリックかつわがままな性格で、プライドが高く、傍若無人な立ち居振る舞いを見せることも少なくないフランス人指揮官に、JFAの技術委員会は辟易していた。7人で構成される2002年強化推進本部なる部署が急きょJFA内に立ち上げられたのも、本来ならば二人三脚を組むべき大仁邦彌技術委員長(JFA前会長)がさじを投げたからだった。

 2000年に入ると、A代表は3月の中国代表戦で0‐0、4月の韓国代表戦では0‐1とともに無得点試合が続く。パーソナリティー的な問題もあり、「トルシエ解任やむなし」という声は瞬く間に大きくなり、釜本邦茂副会長をトップとする2002年強化推進本部内でも再三話し合いの場がもたれた。

 意見百出の末に、多数決が取られた。果たして、結果は「解任」が4票で「続投」の3票を上回った。もっとも、最終的な決定は会長だった岡野さんに一任されることになった。そして6月に入り、トルシエ監督が日韓共催大会まで指揮を執ることが決まった。

 議論が尽くされ、最後は当事者による多数決で決まった案件を自身の一存でひっくり返す。民主主義の原則に反する行為であることを承知のうえで、それでもトルシエ監督の続投を支持した理由を、岡野さんは後にこう語ってくれた。

「確かに問題はあるけれども、チーム力が伸びつつあるときには監督を代える必要はない、というのが私の結論でした。私が見ている範囲では、チーム力が確実に上がってきていたので」

 続投が決まる直前にモロッコで開催されたハッサン二世杯で、トルシエジャパンはPK戦の末に敗れたものの、世界王者フランス代表と2‐2の好勝負を演じている。もっとも、岡野さんはこの大会だけを見て決断したわけではなかった。

 トルシエ監督は就任からしばらくすると、契約には含まれていなかったU‐20日本代表監督を兼任。1999年
3月にナイジェリアで開催されたワールドユース選手権(現U‐20W杯)で準優勝という快挙を達成し、直後には主力選手たちを積極的に五輪代表へ引き上げた。
   

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最終更新:2/11(土) 6:12
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