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【ウォール街回想記2】過酷な経歴のアナリスト仲間、居住権獲得で徴兵の危機

5/29(月) 16:30配信

THE PAGE

 米国のニューヨーク州マンハッタン南端部に位置する「ウォール街」は、世界の金融センターとしてその名を轟かせています。日本の金融機関が米国に進出しはじめたのは1960年代後半。当時は米国証券会社に日本人が直接雇用される例はたいへん珍しかったそうです。

【ウォール街回想記1】1960年代、日本は新興国だった バーナムの伝説的人物

 日本株の取引が世界で注目され始め、著者は米国の証券会社バーナム・アンド・カンパニーの国際調査部のアナリストとして、日本経済分析や主要銘柄の業績分析を担当しました。ベトナム戦争泥沼化や米国株の大暴落など、波乱に満ちたウォール街デビューだったといいます。

 

まずは給料の交渉、配属先の部署の選択

 さて私個人は、1969年10月、当時持ち出し外貨上限の500ドルを懐に入れ、日本を発ち、トレーニーとしての仕事を始めました。週給125ドル(当時は固定為替制度で1ドル360円時代)で、当初は安ホテルに滞在したものの、ホテル住まいを続けることはできず、かと言って短期間のアパート契約を締結することもできませんでした。早速、会社と交渉し、税別週給125ドルにすることに成功しました。10月入社でしたので、所得源泉徴収税の年間所得計算から還付されるので、それを会社に払い戻す条件としました。

 配属先の部署には二つの候補がありました。一つは大鷹氏が携わっていた日本株トレーディング部で、新進の株式自己売買業務でした。ロンドンはニューヨークに先んじて日本株取引において活発な業務を展開していました。バーナムもそれに続けと、ロンドン所在のヴィッカーズ・ダ・コスタ社と共同ファンドを設立。日本株取引では、時間差を利用し、東京、ロンドン、ニューヨーク間を持ち回し、裁定売買をしていました。当時は米国発信の世界ニュースを利用し、先駆けて取引を行うことによって多額の利益が得られる商売でした。

 もう一つの候補は国際調査部アナリストとして、日本株と日本経済の分析を行う部署です。私は大学時代経済学を専攻していたので、ちゅうちょなくこの仕事を選びました。

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最終更新:6/3(土) 6:06
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