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あなたは、あの日、何をしていた? 東日本大震災から6年。

3/11(土) 13:20配信

STORYS.JP

東日本大震災から6年が経ちました。

人それぞれの 2011年 3 月11日。
あの日、あなたは何を想いましたか。
今、何を想いますか。

本日は、地震が東京のビル群をぐわんぐわんと揺らした時、東京の中心にいたある女性の1 日のストーリーをご紹介します。

以下、ご本人手記の転載です。(読了 11分)

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※自分は311の時どこで何をしていたのか、記録に残しておくために書きました。私はスマホを持っていなかったので、ニュースなどの情報がほぼ入らない中、
発生から9時間以上かけてようやく家にたどり着きました。ただ行く先々での人々の雰囲気や気配から、事態の大きさを推し量って行動しました。

2011年3月11日(金)

あの日、私は東京都心にいた。

私はフリーでグラフィックデザイナーをしていて、
普段はたいてい、東京の下町の自宅で仕事をしている。
あの頃まだ子供はいなくて、旦那さんと2人暮らしだった。

家を出る用事といえば、夕食の買い出しと、図書館に本を借りに行くくらい。
しかしこの日はたまたま、原宿にあるデザイン事務所に営業に行っていた。
とても珍しいことだった。
営業や打ち合わせのために都心に出ることなんて、
数ヶ月に1回くらいしかない。
自宅は東京の東の端にあるので、都心までは電車で40分くらいだ。

14時46分

私は、その事務所の場所を地図を頼りに歩いて探していた。
15時にアポイントを取っていて、あと数100メートルで目的のビルに辿り着こうとしていた。ちょうど高いビルの前を通りすぎて、陸橋の上に差し掛かったとき。

ドクンッ

と、自分のまわりの世界の心臓が、波打ったような揺れを感じた。

一瞬何が起きたかわからなかったが、立て続けに大きな揺れがドクンドクンと
起き、「地震だ」と気づいた。しかも、結構大きい。

私は瞬時に上を見上げ、何か高いところから落ちてくるものがないか、
まわりに危険な電線や電柱がないか、確認していた。
ちょうど陸橋の上だったので、視界は開けていた。

そのとき、さっき通り過ぎた高いビルの上の方から、
ガシャンッ!と何かが落ちた音が聞こえ、どよめきと悲鳴が上がった。
目の前でそのビルが、まるで豆腐のようにぐわんぐわんしなっているのが見えた。

ビルがしなってるところなんて見たことがない。
一瞬で「この地震はやばいヤツなんじゃないか」と思った。
陸橋の端、高いビルのすぐ近くで、年配の女性がただただ悲鳴をあげていた。
私は咄嗟に走りより「こっちに来た方がいいです、危ないですから」と
その人の手を取り、陸橋の真ん中まで連れてきた。

ここまで、1分くらいだろうか。

自分の安全を確認したあと、すぐに家に一人でいる旦那さんのことを
思い出し、携帯をチェックした。着信があった。すぐかけ直す。
「もしもし!?大丈夫!?」
「大丈夫だけど、なにこれ!?家中の棚からモノが落ちてきて、そ」
プツっと通話が途切れてしまった。
その後は、何度かけ直しても通じなかった。

私の旦那さんはアメリカ人だ。
日本に来て2年くらいで、大きな地震の経験は皆無だし、
そのための訓練も受けていない。パニックになって当然だと思った。心配だった。
私があのとき比較的冷静でいられたのは、やはり子供の頃から繰り返し学校でやらされた避難訓練のおかげではないかと思っている。

とりあえず揺れが収まったので、はやる心を抑え、
予定通りデザイン事務所へ行った。
そのときはまだ、あんなに大きな地震だとは全く思っていなかったし
そのあと家に帰れなくなるとは、予想もしていなかった。
「ずいぶん大きな地震だったなぁ」くらいにしか思っていなかった。

デザイン事務所へ到着すると、3~4名の女性スタッフと、社長さんがいた。
「大丈夫でしたか?」「とんだ日に来ちゃいましたねぇ」と口々に言われ、
心配して頂いた。それでもやはり皆、まだあそこまで大きなものだったとは
思っていなかったと思う。

作品を見て頂いたあと、女性スタッフの一人に、ベランダに出てみるように
勧められたので出てみると、遠くの方で大きな煙が上がっているのが見えた。
彼らのいるビルもなんだかバタバタとして騒がしく、
「避難」という言葉が聞こえてきた。

それでやっと、なんだかいつもの「普通の地震」とは違うような気がしてきた。
胸騒ぎを覚えながら、スタッフの方々に早めに帰った方がいいのではと言われ
早々と事務所を後にした。
どっさりと参考資料を渡されたので、重い手荷物を抱えながら、
今日はこのまままっすぐ帰ろうと思っていた。

とりあえず旦那さんのことが気になっていたので、ビルを出てすぐに何度か
電話をかけたが、一切通じない。「混線かな?」と思いつつ、もう少ししたら
繋がるようになるだろうと思っていた。

陸橋を過ぎ、高いビルの前まで来ると、大勢の人々がビルの外に出ていた。
原宿の竹下通り並み、歌手のコンサート会場前くらいの混雑だった。
・・・そこでやっと、ただならぬ空気を察し、
何かが起き始めていることに気づいた。

ラッキーなことに、その人混みの中に知り合いの顔を見つけた。

久しぶりに会うが、前の職場で一緒だったデザイナーの女性だ。
私は駆け寄り、「ねぇねぇ、何が起きてるの!?」と聞いた。
最初びっくりしていたが、彼女がそのビルの中で働いていること、
どうやら地震が相当大きいということ、電車が止まっていることを教えてくれた。

電話も一切誰も通じないという話も聞いて、ますます旦那さんが心配になった。
うちはご近所付き合いがないし、うちの両親は少し離れたところに住んでいるし
しかも彼は日本語を話せない。今、完全に一人ぼっちということだ。
きっと何百回も私に電話をかけているだろう。
なんだか涙が出そうになってきた。

私はお礼を言って、彼女と連絡先を交換し、とりあえずどうしようか考えた。
何度も言うが、ガラケーだ。一応Yahooは見れるが、パケットし放題にすら
入っていないので、イザというとき以外は使いたくなかった。
(今がイザというときじゃないかという意見はそっと胸にしまって下さい)

私は、とりあえず大きな駅に行ってみようと思い、渋谷駅を目指して歩いた。
このとき、17時前くらいだっただろうか。

とにかく、ニュースを見たいと思い、駅近くでお店に入ってみたがテレビがなく、
お店の人にどうなっているのか聞いたが、目新しい情報はなかった。
お店は静かで、外で何が起きているか全く関係ないという
落ち着いた雰囲気だった。変わらない日常がそこには確かにあった。

渋谷駅は大混雑だった。ものすごい数の人々がひしめいて、混乱し、
声を荒らげていた。もはやどの線も動いておらず、
どこへも行けない状態だった。じわじわと事態の大きさを感じていた。
駅の公衆電話に長蛇の列が出来ているのを見て「その手があったか!」と思った。
早速並んでみたが、列は全く動かない。
一人が複数の場所にかけているのかもしれない。

もう時間も時間だし、とりあえず電車がいつ動くかわからないので、
まず乗り換えをする余裕はないだろうと思った。
ということは、一本で家までたどり着ける線のある駅に行かなくてはいけない。
うちは常磐千代田線なので、千代田線のある始発の駅・・・
「表参道」までとりあえず行くことに決めた。
しかも、以前働いていいた場所なので、地の利がある。
どこに何があるかわかっているのは、こういうとき都合がいいのではないかと思った。公衆電話は何時間もかかりそうなので、とりあえず諦めた。

渋谷から表参道は、何度も歩いたことがあるので道はわかっていた。
今になって、たくさん抱えて歩いていた資料がずっしり重く、負担になってきた。
こんなに歩く予定じゃなかったので、仕方ないのだけど。

246を歩いていると、数人しか並んでいない公衆電話ボックスを発見した。
これを逃したら次いつ電話をかけられる機会があるかわからないし、
地震発生から数時間経っていて、震源地もよくわからないままだったので
両親のことも心配だった。自宅と実家にかけようと思った。

携帯は通じないことを知っていたので、自宅の電話にかけた。繋がった!
このときほどちゃんと家電があって良かったと思ったことはない。

すぐに旦那さんが電話を取った(普段は日本語わからないから取らない)。
息せき切ったように話し始めた。棚から全てのものが落ちてきて、
部屋がぐちゃぐちゃになったこと、それを全部片付けたこと、
ニュースを見ているが、どこかですごいことが起きていることを一気に
教えてくれた。「Oh my god」と何度もつぶやいていた。
そこで初めて彼から「TSUNAMI」という言葉を聞いた。
「大変なことになっているんだ」と一生懸命説明をしてくれるのだが
映像がないからどのくらい「大変なこと」になっているか、正直わからなかった。

とりあえず彼の声を聞けて、無事を確認出来てほっとした。
「うちの両親は大丈夫かしら」とつぶやくと、
なんと両親が彼に電話をしてくれていたことを知った。
私の携帯は通じないし、旦那さんを心配して家電にかけてきてくれたらしい。
普段は言葉の壁もあり、両親と旦那さんは全く交流がなかった。
ちょっと感動した。

次に両親に電話をすると「無事で良かった」とほっとしているようだった。
母親は、まさか今日に限って都心に行ってるなんてねぇ…と嘆いていた。
彼らもニュースを見ているので、日本語のわからない旦那さんより細かく
いろいろ教えてくれた。でもやはり映像がないので、まだ実感はなかった。
ただ、東北の方でとてつもない大惨事が起きたらしいことはわかった。

もう時間は18時をまわっていた。
電車は一向に動く気配がない。

両親に、とりあえず表参道駅に行って、電車が動くのを待つつもりだと伝えた。

表参道駅に着くと、どの線も動いておらず、構内には大勢の人々が座り込み
難民キャンプのような状態になっていて驚いた。
右往左往していた渋谷駅の混雑と比べて、ここは逆に静かで
諦観のようなものが漂っていた。

それを見て、ふと悟った。これは長期戦になりそうだ、と。
今ばたばた動いてどうにかなるものでもなさそうだと気づいた。
今夜は帰れない可能性も出てきたということだ。
私は咄嗟に、もしかしたら今の時点でホテルを取るか、漫画喫茶の個室を
おさえておいた方がいいのではないかと思った。
ただ、インターネットがないので予約をすることは出来ない。
そうするとまた渋谷まで戻って漫喫に行くべきか・・・と少し迷ったけど
重い荷物を持ってこれ以上歩きまわる体力も気力もなかったので、諦めた。
誰か都心の友達の家に泊めて貰えないかも考えたが、
とにかく携帯が繋がらないので、誰とも連絡を取れない。

「ここ(表参道駅)で電車が動くまでとにかく待つ」
と覚悟を決めた私は、とりあえず駅で寝る用意をしよう、と思った。
駅員さんに様子を聞いたら、やはり電車が今夜動くかどうかもわからないと言っていたからだ。
3月とはいえまだ夜は冷え込むだろう。すでに身体は冷えて疲れきっていたし、
もう19時近く、おなかもすいていた。それに資料が重すぎる。
これは絶対にどうにかしないと、もう歩くことすら出来ない、と思った。

そこで、一番近いコンビニを記憶を探って思い出し、そこまでヨロヨロ歩いた。
着いてみるとすでに、長蛇の列。コンビニの外まで人で埋まっていて、
食べ物と飲み物の争奪戦が始まっていた。とにかくまず列に並び、
ぐるっと店内を一周するうちに水と食べ物とレインコートを確保した。
レインコートは着たらちょっとは暖かいかなと思ったので、
ないよりはマシかもしれないと手に取った。
レジでついでに資料を全部宅急便で自宅に送る手配をした。
「何日かかるかわかりませんが・・・」と言われたが、持ち歩く体力はもはや
なかったのでお願いした。とりあえず身軽にはなった。

駅に戻り、構内の柱の下に座り込んだ。疲れきっていた。
でもまだまだ帰れそうにない。まわりをぼーっと見渡してみると、
みんな食い入るようにスマホを見ていた。
自分がガラケーなことを、この日だけは嘆いた。
でも誰かに話しかける勇気もなく、とりあえず今が「イザ」というときだと思いYahooニュースを見てみたが、画像もゴミのように小さく、
動画なんて見れるはずもなく、M9という文字をただ眺めるだけだった。
相変わらず具体的な情報は得られなかった。

待つこと、数時間。

ようやく、銀座線だけが再開するというので、とりあえずちょっとでも
家に近づこうと、乗ることを決めた。行けるとこまで行こうと思った。
混んでるかと思いきや、意外と車内はガラガラだった。
結局、なんとか辿りつけたところは、浅草駅だった。
浅草駅と私の最寄り駅は、バスで繋がっている。
バス停を探した。乗ってしまえば、45分くらいの距離だ。
しかし着いてみると、やはりというべきか、長蛇の列だった。
道路は大渋滞で、車より歩くほうが早そうだった。
果たして待っていればバスは来るのか?
不安に思った私は、列の一番前の女性に聞いてみた。
「どれくらい待っているんですか?」
「3時間よ!何度かバス通ったんだけど、満杯で素通りされたの」

……こりゃ無理だと思った。

「…最寄り駅まで歩こうと思います」とぼそっと呟くと、先頭の何人かが「私も歩く」と言い出した。同じ駅の人たちだった。

道を知っているという人がいたので、私は2人の女性と一緒に歩いて帰ることにした。きっと何時間かかかるだろう。でも、もはやそれしか方法はないと思った。

私達の最寄り駅までは、基本的に6号をずっとまっすぐ、だった。
それなら迷うこともないだろうと思った。
歩き始めてみると、意外と同じように歩いて帰ろうとする人達が大勢いた。
真夜中に、ただ黙々と歩くたくさんの人々。
さながら深夜のマーチのようだった。

私は、2人の女性と話をしたり、黙ったりしながら、とにかく歩き続けた。
足は棒きれのようで、疲労困憊していた。でも、とにかく進むしかなかった。

途中、川を渡る大きな橋があった。橋の上は強く、冷たい風が
ビュービュー吹いていて、私はフードを被り、コートの前をきつく握りしめた。

歩くほうが、車よりも早かった浅草の中心部を抜けると、車もだんだん流れ始めた。誰かが乗せてくれないかなぁと思いつつ、ひたすら歩いた。もちろん誰も乗せてくれない。
気づくと相当な人数が6号を北上していた。何百人といた。

途中、あと1時間も歩けば着くだろうというあたりで、お茶を配ってくれているおばさんに出会った。あたたかいお茶を道ゆく人に配ってくれていて、

「どうぞ。がんばってね」と声をかけてくれていた。
ちょっとつつかれたら泣き出してしまいそうなほど疲労困憊していた私は
迷わずにお茶を頂いた。「中に入って休んでいっていいのよ」と招いてくれた。
6号沿いの小さな焼肉屋さんだった。
「ありがとうございます」と泣きそうになるのをこらえながら言うと、
中にいたご主人は「私らこれくらいしか出来ませんが」と笑顔でねぎらって下さった。
一緒に歩いていた2人は、いつの間にか1人になっていた。
私と彼女はお礼を言って、また歩き出した。ちょっとだけ元気になっていた。

ラスト1時間のスパートを経て、やっと駅に着いた。
2人とも相当疲弊していて「やっと着いたね・・・本当にお疲れ様」と言って
名前も聞かずに別れてしまった。それどころではなかったのだ。
私はそのときには、足を引きずっていた。疲労と痛みで朦朧としていた。

途中、携帯が通じるようになって、旦那さんと話した。
歩いて向かっていることを伝えると、彼はとても心配して、駅まで迎えに来ると言っていた。でも着いたよの電話をしても携帯に出なかったので、
駅に止めてあった自転車に乗って、15分。ようやく、我が家に帰り着いた。

ズルズルと音が聞こえそうな歩き方で、家のドアを開けた。
深夜0時を過ぎていた。
旦那さんは、ソファで寝てしまっていた。
テレビのニュースがつけっぱなしになっていた。

そこで私は初めて、あの津波の映像を見た。ものすごい衝撃だった。
家が流され、なぎ倒されていく映像を見て、戦慄した。

必死に帰って来て疲れきっていたけど、そんなのふっとんだ。

帰れなかった人、家族に会えなかった人達だっていたのだ。知らなかった。

私は帰ってこれただけ、ずっとずっと幸せだったのだと思った。

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東日本大震災でお亡くなりになられた方々のご冥福をお祈りし、
亡くなられた方々のご家族、ご友人の皆様方、
そして被災された方々に、心からお見舞いを申し上げます。

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ストーリー紹介 = STORYS.JP編集部

最終更新:3/11(土) 13:20
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