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「子どもを守れなった教師の父」 その死を悲しみきれなかった息子が口にできなかったこと

3/12(日) 9:07配信

BuzzFeed Japan

石巻市立大川小学校の教師として逝った父の死をどう受け止めたらいいのか?あの震災が彼に問いかけること。【石戸諭 / BuzzFeed】

「僕は教員だった父の死をどこか悲しみきれていない」

東日本大震災でのこされた遺族のなかには、大切なその人の死を受け止めきれない人がいる。小学校教師だった父を亡くした佐々木奏太さん(21歳)もその一人だ。

父(当時55歳)はあの時、児童74人、教員10人が死亡・行方不明になった石巻市立大川小学校にいた。2年の担任だった。

大学生になった佐々木さんはいま、児童の遺族とともに大川小に立って、訪れる人たちに何が起きたのかを語っている。

ここだけ強調すると、「辛かった父の死と向きあい、乗り越えた遺族」にみえる。

しかし、6年という時間はまだまだ足りなかった。

2017年3月11日、彼は生まれ育った南三陸町でその時を迎えた。

「いってらっしゃい」と父を見送った

震災当時、佐々木さんは中学3年だった。朝はいつもと同じようにやってきた。
仕事にいく父を「いってらっしゃい」と見送り、登校する。

進学先も決まっていて、中学生活は残りわずかだった。

大きな揺れがやってきた。中学校も自宅も高台にあったため、津波はみていない。
しかし、断続的に被害は伝えられ、そのまま中学の体育館で避難生活が始まった。

その日、母は沿岸部に仕事にいっていた。

父は他よりも安全なはずの小学校にいるから、まず心配なのは母だ、と思っていた。しかしこの時、母は別の避難所にいて無事だった。

数日後、体育館に迎えにきた親族から「大川小が孤立して、大変なことになってい
る」と伝えられた。

1カ月後に見つかった身元不明の遺体、それが父だった

そのまま、父を探しに大川小に向かったが、道路状況が悪く南三陸町から現地にいくことすらできなかった。近隣の避難所もまわったが、父の姿も名前もない。

探している途中にすれ違った大川小の校長が、すべてカタカナで書いた手書きの行方不明者リストを見せてくれた。

その中に父の名前があった。

約1カ月後、大川小の近くを流れている北上川河口付近で、身元不明の遺体が見つかった。損傷が激しく、外見だけでは誰かわからない。

震災から1年4カ月後、2012年の夏、遺体は父だとわかった。

父が行方不明だったあいだ、母は「長期出張に行っているみたいだ」とよく言っていた。

当時、高校生になっていた佐々木さんは、警察官からこんな言葉をかけられている。
「君はまだ高校生だね? だったら見ないほうがいい」

口調は優しかったが、有無を言わせぬ様子を感じとる。
遺体は骨壷に入って帰ってきた。

佐々木さんは「辛くて、悲しかった」というが、母の前で、その気持ちを打ち明けることができなかった。
そして、大川小は社会的な問題になっていく。

児童の遺族は、避難をめぐって石巻市や学校側に問題があったのではないか、と投げかけた。

大川小で何が起きたのか。なにか報じられるたびにテレビをつけたが、母は「チャンネルを変えてくれ」といった。

家の中にいた父とは違う、教員としての父はどうだったのか。
高校を卒業した佐々木さんはいま、宮城県内の教育大学に通っている。
「よく言われるんですけど、父の背中をみていたから、とかではないです。震災直後からボランティアもしていて、そこでも子供と接することが好きだったので、選んだんです」

フェイスブックには自炊した様子をよくアップしている。その中には「学校の給食をイメージしたものです」とシチューとサラダ、パンを並べた写真があった。

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最終更新:3/12(日) 9:07
BuzzFeed Japan