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【藤波辰爾45周年ヒストリー】(33)悪夢の長期欠場 椎間板ヘルニアが発覚

スポーツ報知 3/18(土) 15:00配信

◆名実共にエースとなった

 アントニオ猪木との伝説の60分フルタイムを残した藤波辰爾は、IWGP王座の防衛を重ね名実共に新日本プロレスのエースとなった。

 1989年4月24日、新日本は、プロレス界で初の東京ドームでの興行を開催。6月には参院選に出馬する猪木が社長を辞任し坂口征二が会社のトップに就任し、新たな時代を迎えていた。ライバルの長州力がマッチメイカーとなり、35歳の藤波は、長州と両輪となってリングを引っ張る立場になった。そんな時、悪夢が起きた。

ベイダー戦で激痛

 6月22日、長野県佐久市総合体育館。メインイベントでビッグバン・ベイダーと対戦。強烈なバックドロップで腰を痛打し動けなくなった。何とか試合はクリアしたが、両肩を抱えられて控室に戻った。長年、違和感があった腰の痛みが爆発した。

 「あのベイダー戦の2、3年前、前田(日明)とやっているころからから朝起きると腰が痛くて起きれないとか、試合前の準備運動でも違和感がずっとあった」

◆痛みを抱えても検査しなかった

 痛みを抱えながらも病院で検査はしなかった。

 「プロレスラーである自分の体に対して自信過剰だった。まだ、若かったし、試合が毎日あるから、疲れも痛みも麻痺して、これぐらいの痛みは当たり前でシリーズが終わって休めば治るぐらいに思っていた。また、当時は今のように巡業にトレーナーが帯同していなくて選手個人個人が自分の体をケアしなくてはいけない状況だった。自分もリングに上がる前に付け人に腰を踏んでもらったり、マッサージしてもらったり、湿布したりして対応していたんだけど、今から思えばそれではしょせん、付け焼き刃みたいなものだった。これは、後悔先に立たずなんだけど、検査しておけば良かったという後悔はある」

◆長年の戦いで悲鳴を上げていた腰

 かかりつけの治療院では「完全に休まないと体はもたない」と警告されていた。しかし、当時は、年間の試合数は220以上で多い年は250の超ハードスケジュール。加えて人気レスラーの藤波は、テレビ朝日との契約で「ジュニアのころから、シリーズ終わると海外での番組を撮らないといけなかった。ニューヨーク、カナダ、メキシコとオフも海外に行って休む時間がなかった」。デビューから17年。激戦の蓄積に腰が悲鳴をあげたのだ。

 ただ、信じられないことに藤波は、ベイダー戦後も10試合の地方巡業に出場していた。

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最終更新:3/18(土) 15:00

スポーツ報知

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