ここから本文です

「ちくわに母を殺されたハタチの大学生の話」

3/20(月) 21:00配信

STORYS.JP

ユーザーの方が投稿した記事をご紹介します。
(以下転載。読了目安 15分 )

「ちくわに母を殺されたハタチの大学生の話」

- 大好物 -

僕(寒川友貴)の好きな食べ物はおでん、特に味がしっかり浸み込んだ、ちくわが大好きだった。

あの日が来るまでは…。

- 突然すぎる別れ… -

2016年12月27日夜、僕はJR東京駅の新幹線ホームにいた。

大学が冬休みに入り、実家のある神戸に帰省するためだ。

のぞみに乗る前、駅で晩メシとお土産の東京ばな奈を買い、予定よりも1日早く今から帰ることを伝えようと母に電話した。

なぜか母のケータイにも家電にも誰も出なかったので、父に「今から帰る」とLINEした。

晩ご飯を食べている間に新横浜駅を過ぎ、隣のおばちゃん二人組がうるさいなと思いながらも、僕はもうすぐ家族に会えるということと、29日から家族旅行に行けることに胸を踊らし、心の底からウキウキしていた。

Twitterで「今から神戸に帰ります!」と有頂天で呟こうとしていたその時、スマホが震えた。珍しく父からの着信だった。

僕「もしもし、どうしたの~?」

父「お母さんが亡くなった。今どこにいる?」

僕「え!?新幹線の中やけど…。」

父「じゃあ、神戸の○○病院に来てくれ。」

僕「わかった…。本当なの…?」

父「ああ、本当だ。気をつけてな。切るぞ。」

信じられなかった。信じたくなかった。

電話を切った瞬間、世界が灰色に感じた。天から地に突き落とされた僕はパニックに陥り、脳裏には母の笑顔と数々の思い出がよぎった。

のぞみが終点のJR新大阪駅に着くまで、僕は人目を気にせずに泣き続けた。

あの2時間は20年の人生の中で一番長く感じた。

病院に着くと、時間はもう既に日付をまたぐ直前だった。

入口の自動ドアの向こうには、病院のロビーや救急センターといった見慣れた景色が広がっていた。

なぜなら、ここは僕が心臓病を患っていた高校生の頃、治療のために母と一緒に通いつめていた病院だったから。

救急センターの奥に通され、父と合流した。

そして、待合室のドアの先には、白装束を着た母が安らかに眠っていた。

僕「お母さん、友貴やで。帰ってきたよ。」

母「…」

僕「なんでそんな格好して寝てるの…?」

母「…」

僕「返事してよ。いつまで寝てるの?お母さん!ねえ起きてよ、起きてよお母さん!!!」

母「…」

僕「なんで死んじゃったの…。明日家に帰るって言ったやん、明後日から家族旅行やん、年明けたら俺の成人式やん。
やのに、やのに、なんで…。」

母「…」

僕「お母さん…お母さん…お母さーーーん!!!」

母の遺体を前に、僕は膝から崩れ落ちて、泣き叫んだ。

「お母さん!」と何度呼んだかわからない。

10分以上、一人で母に語りかけ続けたが、母は反応しない。

目を覚まして、「友貴どうしたの?」といつもの笑顔で微笑んくれそうなのに。

母の額に手を当てた時、僕は全てを悟った。いつもは、低体温症やけどポカポカ暖かい母の体が凍ったように冷たくなっていた。

自宅への帰り道、僕は父からその全てを聞いた。

父が仕事から帰ると、母が冷蔵庫の前でうつ伏せで倒れていたこと。

起こしても起きなくて、確認すると息をしておらず、既に死後硬直が始まっていたこと。

父が119番して救急車を呼び、必死に心臓マッサージをしたこと。

病院で医者から死を宣告されたこと。

死因は喉に8cmのちくわを詰まらせた窒息死だということ。

午前2時前、父と2人で実家に帰宅した。ドアを開けても「おかえり」と言ってくれる母はもういない。

階段を上がって、2階に行くと例の冷蔵庫があった。びっくりするくらいいつも通りだった。

そして、目線の直線上にはIHの上に鍋があり、中におでんが入っていた。

母は数年前から入れ歯で、噛む力が弱かった。

だから、食事中食べ物を強引に飲み込もうとして、ゲホゲホしている姿をたまに見ていた。

でも、だからって…。僕は納得できなかった。

ちくわに母を殺されたという事実に納得ができなかった。

食卓には、お茶碗や箸はまだなかったから、恐らく父の帰りを心待ちにして、晩ご飯の準備をしていたのだろう。おでんが完成して、味見をした時に悲劇は起こったんだと思う。

想像するだけで、胸が苦しくなって、頭が狂いそうだった。

そして、僕は悟った。新幹線乗車前、19:42に僕がかけた電話に母が出なかったということは、その時には既に手遅れだったということを。

過去の自分を殺したくなった。心の底から後悔した。

「僕がもっと早く実家に帰ってたら、母を助けられた」

と何度も何度も思った。

タイムマシンに飛び乗りたい、セーブデータのあるところまでリセットしてやり直したい、でも目の前に広がる母のいない世界は、アニメでもゲームでもない、紛れもない現実だった。

- 母が残したもの -

父と2人で母が残してくれた夕食を食べた。

メニューは焼き鮭、エンドウの炒め物、そしておでん…。

家の食卓で、父と2人だけでご飯を食べるのは生まれて初めての経験だった。

だから、気まずくて何を話せばいいのかわからなかった。

おでんのちくわに箸を伸ばした父はこうつぶやいた。

父「こいつがお母さんを…」

無表情だったけど、やりきれない思いがにじみ出ていた。

それは僕も同じだった。目の前のちくわを見るだけで、胸くそが悪かった。

こんな憎い殺人ちくわを食べたくはなかった。

でも、大好きな母が作ってくれた最後の手料理を残すわけにはいかなかった…。

3階の寝室からは色んなものが見つかった。

見慣れた大きな旅行カバンには、2日前父がクリスマスプレゼントであげたという、ピンクのパジャマが入っていた。父は同じスタイルのベージュのパジャマを着ていた。

父曰く、2日後の家族旅行で父と母でペアルックをする予定だったらしい。不器用な父の精一杯の愛情表現だったと思う。それに答えて母は、旅行の日まで着ずに大切にしまってあったのだろう。

母は旅行が大好きで毎回、幹事として家族旅行を誰よりも楽しみにしていた。

今回は、12月29日に兵庫県の西側に行こうということになっていた。

僕がまだ地元の神戸にいた頃、兵庫が誇る世界遺産の姫路城はずっと改修工事をしていて、僕は結局一度もその姿を目にすることなく神戸を離れていた。

だから、改修後の姫路城に行って、塩で有名な赤穂を観光して、旅館に泊まるというプランだった。

家族会議でどこに行くかも決めてたのに…そのプランが実行に移されることはなかった。

僕は母とある約束をしていた。それは、2人で海外旅行に行くということ。

生前、母は音楽の都オーストリアのウィーンに行きたいと何度も言っていた。昔、ピアニストを目指していた母はクラシック音楽、特にショパンが好きだった。

大学1年生の春休み、旅行会社のツアーで行こうとしたが満員と断られてしまった。大学2年生の夏休み、僕があるプロジェクトで世界一周に3ヶ月半の間行くことになり、結局忙しくて行けなかった。

母の枕元からは、ウィーン・ブダペスト・プラハツアーにチェックがつけられた旅行会社のパンフレットと付箋でいっぱいになったオーストリアのガイドブックと使い古された旅行用の英会話帳が見つかった。

昔から、 海外旅行に備えて、毎日NHKラジオで英語とドイツ語を熱心に勉強していた母の姿を思い出した。

涙が止まらなかった。

いつか行こうと言っていたそのいつかは永遠に来なかった。

寝室では随所で、母の僕に対する愛を感じた。

母が使っていたポーチは、僕が一昨年の誕生日にあげたキャラクターのポーチだった。

母の筆箱は、去年僕が韓国研修に行った時のお土産だった。

母のパソコンを開けると、僕のFacebookとTwitterとブログがお気に入りに登録されていた。検索履歴には「寒川友貴」の文字。

どれだけ、僕のこと好きだったんだよ、ほんと親バカだなって笑えてきた。

その日の夜、僕は母の布団で寝た。いや、寝れなかった。

目をつぶっても母の姿が出てくる。

起きているのか、寝ているのかわからないまま、気がつけば時間だけが経っていた。

- 翌日 -

翌日、昼から葬儀屋とのお葬式の打ち合わせがあった。

こいつらは、悪ぶれる様子もなく、金の話ばかりしてくる。「Aプランが~円、Bセットが~円」と母の死をなんだと思っているんだと怒りがこみ上げてきた。挙げ句の果てには、僕に会員登録を進めてきた。

「次お父様が亡くなられた時に葬儀費用が割引になりお得です。」

正気の人間が発した言葉だとは到底思えなかった。人の悲しみに便乗して、お金を巻き上げようとするクズだと正直思った。こんな話を延々とされて、僕も父も心身ともに疲れ果ててしまった。

帰り際、紳士服店で黒のネクタイを買った。幸いにも、成人式用にスーツは持ってきている。こんな早くに着るはずじゃなかった。

夕食は母とよく行ったイタリアンのチェーン店に。母が好きだった、ミックスピザとカルボナーラと赤ワイン、チーズケーキを注文。でも、父との無言の食事には虚しさしか残らなかった。

- お通夜 -

業者との打ち合わせで、お通夜は28日、お葬式は29日に決まった。

この2日間、本当は家族で旅行に行くはずだったのに、母は1人であの世に行ってしまうのだ。

お通夜には親族が15人くらい来た。

顔すら忘れていた、千葉のおじさんと会うのは10年以上前の祖父のお葬式以来だった。最悪な再会の仕方だ。中には、知らない人も多くいて、多くは母の親戚だった。

みんなに「友貴君大きくなったね~」と言われ、僕は無理して作った笑顔で「ありがとうございます」と返事をするのが精一杯だった。

お通夜前、終始僕はイライラしていた。

父方の祖母がよく喋って、たくさん泣いていた。僕はそれがなんだか許せなかった。

自分が一番悲しいはずなのに、なぜそれよりも目立って悲しみをアピールして胃るんだと、よくわからない原因不明の怒りがこみ上げて来た。

いとこの3兄弟もめちゃめちゃうるさかった。ここを何だと思ってるんだ、何しに来たんだ、何で親は注意しないんだと、ぶつけようのない怒りに駆られた。

母は騒がしいのが嫌いだ。だから、最後くらいは静かにゆっくりと母を見送ってあげたかった。

お通夜後、僕と父は式場に残り、母と一緒に最後の一晩を過ごすことになっていた。騒音も消え、僕たち家族にようやく平穏が訪れた。なぜだが、眠っていても母がその場にいるだけで僕の心は安らいだ。

母にたくさん話しかけた。報告してなかった、あんなことやこんなことを。母は眠っていても、ちゃんと聞いてくれているような表情だった。

父と家族での思い出話をした。

たくさん旅行に行ったこと。

遊びに行ったこと。

買い物に行ったこと。

誕生日やクリスマスを祝ったこと。

毎日3人一緒にご飯を食べたこと…。

当たり前の日常がどれだけ素晴らしかったのか、哀れな僕は今更気がついた。

父の口からは、母にまつわるこれまで聞いたことのない話がたくさん出て来た。

父と母は知人の紹介で出会ったということ。

阪神淡路大震災で大変な思いをしたこと。

母は子どもがなかなかできなくて何回も流産をしていたこと。

僕を妊娠した時は流産防止のために、長期間の入院をしながら高い薬を大量に投与していたこと。

育児ストレスで心の病気になって仕事を辞めたこと…。

僕を産むこと、育てることに母がどれだけ苦労していたか、その時ようやく知った。

最後には、母が好きだった音楽をかけた。ショパンの交響曲、そしてファンクラブに入るくらい大好きだった福山雅治の「家族になろうよ」を母と一緒に聞いて、僕と父は眠りについた。

こうして僕たち家族、最後の家族団らんは幕を閉じた。

- お葬式 -

お葬式前、棺を開けてもらい、母と最後の面会をした。

棺には、母が好きだったものをたくさん入れた。

お気に入りの服、帽子、父が渡したパジャマ、ぬいぐるみ、バナナ、チョコパイ、洋菓子、カフェオレ、ヨーグルト…。

そして、母への誕生日プレゼントとクリスマスプレゼントを兼ねた世界一周のお土産。出発前の母のリクエストに応えて世界各地で買ってきた、ポストカードを棺にちりばめた。

「あと一日遅ければ、直接渡せたのにな。どんな顔して喜んだやろ。」とかを頭で考えながら。

最後に、白装束の襟に思いを書いた手紙を忍び込ませ、耳元でらしくないクサいセリフをささやいて、僕は母と正真正銘、最後のお別れをした。

お葬式が終わると、母は父と共に霊柩車に乗り込んだ。

実は、母方の祖父と祖母もここ3年くらいに亡くなっていて、着いたのはその時と同じ山奥にある火葬場だった。「もう二度と来たくない」と思った。

母は実質、親の後を追う形になって「お母さんは向こうで寂しくないかもしれないけど、残された僕とお父さんはめちゃくちゃ寂しいんやで!」と母に言ってやりたかった。

数時間後、母はもうかつての面影を残すことなく、骨になって出てきた。

母の変わり果てた姿を見た瞬間、「母はもうこの世界にはいない」ということを、僕はセカオワの「眠り姫」の歌詞を思い出しながら実感した。

職員さんが骨の部位をボソボソと説明する。「魚の解体ショーじゃあるまいし、黙っとけ!」と内心思ってた。そして、僕は号泣しながら、箸で骨を取り、納骨をしたのであった。

そういえば、母は昔、秋川雅文の「千の風になって」が好きだった。僕は小さかったから、当時まだ歌詞の意味がよくわからなかった。でも、母が死んでようやくわかった。だから最近は

今頃母も、千の風になってあの大きな空を吹きわたっているのかな、なんてふと思ってみたりする。

晴れて、お通夜・お葬式・初七日と母をあの世へ送り出す儀式は全て終わった。

でも、僕の心は全く晴れなかった。なぜなら、母がいないからだ。

- 絶望 -

朝起きて、布団をのぞいても母の姿はない。

そこにあるのは、仏壇とニヤリとこっちを見ながら微笑んでいる母の遺影だけだ。

母の位牌に向かって手を合わせるのは、いつまでたっても慣れない。

年末年始、父と私の二人暮らしが始まった。これまで、家事はすべて母に任せっきりだったから、何をやっても一苦労だった。

数年ぶりに、ご飯を炊いて、自分でちゃんとした料理作った。

レパートリーはカレー、ラーメン、肉じゃが、チャーハン、青椒肉絲、鍋って感じで不器用ながら毎日、危ない手つきで包丁を握りながら奮闘した。

昼に起きて、昼食を作って、テレビを見て、買い物に行って、夕食の準備をして、テレビを見ての繰り返し。何をするにも父と一緒だ。

前までは、ご飯を食べたらすぐに部屋に帰っていた父がリビングから離れなくなった。

僕も寝る時以外、自分の部屋には戻らず、何を話すってわけじゃないけど、リビングに父と張り付いていた。言葉にはしないけど、お互い寂しいのだ。

ある日、父がボソッと言った「お金を貯めても使う人がいなければ意味がない」という言葉が、今でも僕の心に深く深く突き刺さっている。

寂しさを誤魔化すために、僕と父は毎晩お酒を飲んだ。

父の飲む量は以前と比べて明らかに増えていた。

母は結局、11月に成人を迎えた僕と一緒にお酒を飲むことなく、この世を去ってしまった。家族3人でお酒を飲んで普段できないようないろんな話をしてみたかった。

そして、母からワインの飲み方を教えてもらいたかった。

僕は父といる時には、泣かない。

父はポーカーフェイスで、素振りは見せないけど、きっと誰よりも悲しんでいて、些細なことで心配をかけたくなかったからだ。

だから、僕は毎晩深夜に1人で1日分蓄えた大量の涙を「お母さん!お母さん!!!」と泣き喚きながら、放出していた。

そして、その悲しみを大量のお酒で紛らわして、布団に入るのが日課だった。

僕に目の前にある絶望と戦うほどの力は残っていなかった。

実家にいると、違和感しかない。

リビングの母が座っていた椅子には今は誰もいない、母の布団には誰も寝てない、洗濯をしてもベランダで洗濯物を干す母の姿は見られない。

いるはずの場所にいるはずの人がいない。

家の中のどこにいても、近所を散歩していても、近所のスーパーで買い物をしていても母との思い出が蘇ってくる。その度に、目から大量の涙が湧き出てくる。

母がいないことが当たり前になっていくのが、たまらなく怖かった。

母がいないという非日常が日常に変わろうとしていることに対して、僕は必死に抗っていた。

年が明けると、父が仕事に行くようになった。

父は中学校の教員で、定年を過ぎた今でもバリバリ働いている。

僕が就職したら退職して、母と老後を楽しむ予定だった。予定が崩れてしまった今、今後どうなるのかはわからない。

父が仕事でいないということは、家に僕1人になるということだ。

母は専業主婦だったから、長時間1人で留守番をした経験はなかった。

母はもう家を出たまま帰ってこない。

これから先、一生母の留守番をするのだと思うと背筋がゾッとする。

実家は1人でいるには、やけに広い。それが、寂しさや悲しみを助長させた。

かといって、僕は誰とも会いたくはなかった。そういう気分ではなかった。

地元の中学や高校時代の仲が良い友達と会う約束さえも僕にとっては億劫だった。友達と飲んでも、お泊まりしても、スーパー銭湯に行っても、僕の寂しさは紛れなかった。

いつでも、頭の3割くらいは母のことを考えていて、常に心にはぽっかりとど真ん中に大きな穴が空いたような気分だった。だから、遊ぶことや楽しむことに全然集中できなかった。

一生に一度の成人式でも、僕は結局2次会に行く気にはなれなかった。

時間が経っても、僕の心境に大きな変化はなく、強いて言えば、絶望に慣れたくらいである。

- 逃げ場なき孤独 -

成人式が終わると、僕の長かった冬休みも終わりを迎える。

大学の授業に出るために、東京の下宿先に戻らなければいけない。

社会復帰しなければいけないタイミングが来た。

それに合わせて、僕は東京に向かう新幹線の中で、Facebookに投稿をした。

虚勢を張って、できるだけ元気に見せようとした。たくさんのいいねがついて、たくさんの人からコメント欄やメッセンジャー、LINEで慰め・共感・激励のメッセージをもらった。

でも、僕にはそれを受け止めきれるだけのキャパがなかった。

内容を理解するだけで精一杯で、どんなトーンでどんなテンションで返信をすればいいのかわからなかった。

この人には社交辞令で返すべきか本音や弱音を吐いていいのかなど、いろいろ考えていると余計しんどくなって、Facebookに投稿したことを死ぬほど後悔した。

東京に戻ってからというもの、僕は居場所を失った。

いろいろあって、今はサークルに入ってなければ、バイトもしてない。大学の授業もたまに友達とかぶるくらいだ。

でも、今まではそれで困らなかったし、むしろ拘束されずに自由で楽だった。

それは、家族という絶対的な居場所が僕にはあったから。

それが崩れてしまい、人とコミュニケーションをとることが億劫になった僕には安心していられる居場所がなくなった。

すると、授業以外では外に出なくなり、僕は1人家に引きこもった。考えはどんどん内向的になり、生きる意味がわからなくなったり、死にたいと思うようになったりした。

無気力になり、無機質な世界に絶望した。

ストレスを発散するために、暴飲暴食を繰り返し、昼夜問わず酒を大量に飲んだ。

夜は不安に襲われて寝れなくて、酒を飲まないと寝れなくなった。夢にまで母が出て来た。

数日間、誰とも話さない日が続き、さすがにまずいと思った。

でも、毎日鬱陶しいくらい心配の電話をかけてくる母はもういない。父を心配させるわけにはいかない。

だから、一部の友人に頼り、毎日のように電話した。するとある日友人にこう言われた。

「正直、もうしんどい」

僕が味わっている苦しみを友人にまで与えていることに気がついた。また、別の友人にもこう言われるんじゃないかと思い、僕は誰にも相談ができなくなった。

そして、僕は逃げ場なき孤独を味わった。

- 神様なんていらない -

それからというもの、僕は毎晩、学生マンションの一室で朝まで1人で泣き続けた。

涙が目に溜まって、雫がドバドバと枕に落ちていく。それをエンドレスで延々と繰り返す。

多分、この短期間で、これまでの人生をはるかに上回る涙を流したような気がする。

よくちまたの本や歌に出てくる、大粒の涙って言葉の意味がなんとなくわかった。

泣きながら、いろんなことを考えた。

僕は、無神教だし、神なんて信じていない。無知だから、~教の神の解釈なんて知ったこっちゃない。でも、もし神がいるとしたら、僕はそいつ大嫌いだ。

なんの罪もない、母の人生に終止符を勝手にうった。そして、僕たち家族から幸せな日常を奪い取った。

あの楽しい日々が永遠に続くと思ってた。

でも、それは突然残酷な終わりを迎えた。

僕の頭の中の、家族での楽しい思い出が一瞬で悲しい思い出へと置き換えられた。

いっそ記憶がなくなって、全てを忘れられたら、どれだけ楽かと思った。

でも、それは無理だ。

僕が大好きなアーティスト、Back Numberの「ヒロイン」の好きな一節

「思えばどんな映画を観たってどんな小説や音楽だってそのヒロインに重ねてしまうのは君だよ」

まさにその通りだ。僕にとっての「君」は母だ。

街を歩く親子も、テレビの家族特集も、物語に登場する主人公の母親も全て、僕の母と重ね合わせてしまう。

スーパーで母が好きだったお菓子を見ても、よく家族で訪れた京都をテレビで芸能人が街ブラしているのを見ても、母が好きだったクラッシックを本屋で聞いても、大学の生協で母がよく見ていた旅行会社のパンフレットを受け取っても、LINEで友達が母親と喧嘩したエピソードを聞いても、

母がフラッシュバックしてくる。

コンビニおでんに入っているちくわを直視することなど到底できない。

いつどこで何をしていても、不意にじわっと涙が浮かんでくる。

お酒や睡眠、遊びでどれだけ逃げても、この悲しみから逃げ切れることは無理そうだ。

事実、今この文章を書いている大学にも、母は僕と一緒に5回来た。

僕が高校2年生の時は学校見学で、高校3年生の時は教育学部と社会科学部の入試で、大学1年生の時は、入学式とGWに僕の様子を見に来た。下宿先の学生マンションにも3回来た。

大学にいても、家にいても、どこにいても僕は母の虚像を追いかけ続ける。

永遠など、この世にはないと世間では言われている。

でも、ただ一つ言えるとするならば、

母は「永遠」に戻らないという事実に、僕はこの先死ぬまで「永遠」に苦しみ続けるだろう。

神に問いただしたい。

この死が運命だとしたら、1957年11月11日に生まれた母は59年間、2016年12月27日にちくわに殺されるために生きてきたのか。そんな馬鹿な。人1人を助けられないような、役立たずな神はいらない。

いるなら、今すぐ!たった今すぐ!!!、母を僕の元へ返して欲しい。

- 命綱 -

メンタルがボロボロになった僕の最後の命綱、それは唯一の家族である父だった。

ある日の深夜、すがる思いで電話をすると、父は一瞬で僕の状況を察して、ただただ僕の話を聞いてくれた。それだけで、心は軽くなった。

週末、父から「今週、帰ってきたら?」とLINEが来た。心身ともに極限まで追い込まれていた僕は迷わず帰った。

母の遺品である鍵で家のドアを開けると、台所には鍋の準備をしている父の姿があった。

一緒に鍋をつついて、ビールを飲んで、テレビを見て、片付けをする…たったそれだけのことだったけど、僕にはとても幸せな時間だった。

何気ないことに幸せを感じられた瞬間だった。

平井大の「Slow&Easy」のサビに

「幸せは作るのもじゃなくて気づくこと なんだって きっと」

って歌詞があるけど、幸せってそういうもんなんだろうな、きっと。

夜行バスで実家から東京に戻る日曜日の夜、僕は父に人生相談をした。

思ってることとか考えていることをあーだこーだとしゃべり続けた。

母が亡くなって目の前が真っ暗になったこと。

僕の人生は、お先真っ暗だと思ったこと。

でも、無情にも時間は待ってくれない現実を知ったこと。

こんなことを考えて、嘆いて、落ち込んでいる間にも刻々と時間は過ぎているにビビっていること。

気がつけば、口癖が「これからどうしよー」になっていたこと。

すると父は、口を開いてこう言った。

「家のことは気にしなくていいから、好きなことをやりなさい」

- 道 -

僕が東京へ帰る準備を終えて、家を出ようとしていると部屋から出て来た父があるプリントを差し出した。それは、中学校で教務主任を務める父が、受験を控える中3の学年通信に寄稿した原稿だった。

「みんな、一番いい道を選んでいます。」

いよいよ2月が始まります。3年生にとって2月、3月は人生の大きな分かれ道です。義務教育を終え、次のステップへ踏み出そうという時期です。

これまでの時間、中学校卒業後について色々悩み考えたことでしょう。どの進路を、高校を選ぶのか。別の進路の方が良かったのではないか。合格できるのか。自分にとって本当に一番ふさわしい進路なのか。将来の人生設計は大丈夫なのか。合格したとしても、その進路でしっかりやっていけるのか。迷いや心配は尽きませんが、どれかを選択しなければいけないし、選択したものを変更したとしてもまた悩みは生まれます。

お正月、テレビのCMで「大人エレベーター」に乗った妻夫木聡さんが所ジョージさんと人生について語っていました。「人生、二度あればいいと思いますか。」の問いに「おんなじことやるからね、2回目も。よく、振り返ってあそこが枝の分かれるところで、あっち行ってればこうなってたはずだ。いやいやいや。一番いい道選んでるって、全員。」の答。

そうなのです。自分で選んだその道がベストなのです。他の人と比べる必要はないし、もしその道で失敗したら、また、次の道を選んでいけばいいことです。大切なことは、選んだ道を全力で進んでいくことだと思います。たとえ結果が悪くても、全力を出したことで後悔はしないし、次の目標に向けたまた一歩を踏み出す力がわいてきます。

3年生にとって大切なこの時期、健康に気をつけて自分を信じ、不安だけれど耐えて心穏やかに過ごしましょう。そして、「今はこれをやろう」と決めたことに集中して、自分のベストの進路に向けて一歩一歩進んでいきましょう。

みんな、一番いい道を選んでいて、道は必ず開けます、必ず。

父の言葉は情緒不安定だった僕の心に安定をもたらした。

僕の性格は、怠け者で面倒くさがりや。なんでも後回しにしたがる。

でも、人間いつ死ぬかわからない。後回しにした結果、大好きな母に親孝行ができなかったことは悔やんでも悔やみきれない。こんな思いを二度としたくないし、誰にもさせたくない。

だから、大好きな父への親孝行は面倒くさがらず、優先的にやりたい。

ふたりぼっちになっちゃたけど、家族の時間は大切にしたい。

数学教師の父が「孫に数学を教えてあげるまでは死ねない」って言ってるから、叶えてあげたいな。

今でも生きている意味がわからなくなる瞬間が時々がある。

でも、僕は死ぬまでにまだまだやり残したことがたくさんある。も

っと勉強したいし、世界のいろんな景色を見たいし、刺激的な経験をしたい…

そして何より、父と天国の母に自分で稼いだお金でプレゼントをしたい、結婚をして孫を見せてあげたい、人の役に立って褒めてもらいたい。

これが僕にできる何よりの親孝行だと思うから。

母の死を乗り越えることは一生できないかもしれないけど、悲しみと寄り添って共に生きることはできるかもしれない。

母の死からずっと下を向いていた僕にとって、いきなり上を向いて歩くのは首がしんどいかもしれない、過去が気になって時々後ろを振り返ることもあるかもしれない。

でも、迷わないように前を向いて歩いて行こう。

そこには、まだ見ぬ一番いい道が広がっているのだから。

きっと人生とは、一番いい道を「選ぶ」のではなく、「作る」こと。

- あとがき -

長いお話にお付き合いくださり、ありがとうございました。

母の死から1カ月が経とうとしたある日、これまで逃げてきた母の死と正面で向き合おうと思い、追悼の意味合いも込めて文章を書くことを決めました。

大学生ということもあり、思い立ったのがテスト期間真っ只中だったので、迷いましたが「今書かないと絶対後悔する!」と思い、テスト勉強の合間を縫って書きました。

内容としては、何が起きたかだけではなく、僕がその時どんな心境だったかを拙い文章力ながら、表現できるように努力しました。

正直、思い出すだけでもとてもツラく、大学の図書館や家の机で書いていると母との思い出が蘇ってきて、泣いてしまうことが何回もありました。

でも、書きながら心の整理ができ、今ではスッキリした気持ちが強いです。

誰も経験したくない、親の死。でも、その時はいつか必ず訪れます。死んでから悔やんでも遅いです。だからこそ、自分に今何ができるか考えて、できることから行動に移すことが最高の親孝行です。

「幸せは作るものじゃなくて気づくこと」

寒川友貴

最終更新:3/20(月) 21:00
STORYS.JP