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「これから親になるあなたへ 」子供として母として知った事

3/26(日) 21:00配信

STORYS.JP

子育てをするにあたり、いい教育とは何かを考え、頭を悩ませておられるお母さんも多くおられるかと思います。

しかし、あなたはあなたのままで、いいのかもしれません。
目の前の子供たちをただ認めてあげれば、それでいいのかもしれません。


本日は、小学生のお子さんを持つ30代の女性が
母親からうけた教育を振り返って思うこと、そして、
今度は自分が母親になってみて思ったことを綴ります。
( 読了5分 )



「絶対あんな親になんかなるもんか」

10代の時、毎日泣きながら部屋でそう思っていた。絶対に、お母さんみたいな親にはならないって。

認めて欲しかった。頑張ってるねって、偉いねって言って欲しかった。

それだけでよかった

【 お母さんと、3歳の私 】

厳しい母親だった。親戚や近所の人たちは皆そう言う。私は一人っ子で、生まれてすぐの事故もあってか母は懸命に私を育ててくれた。

食べ物は制限され、時間は決められ、容赦なく怒られ、叩かれて外に放り出されるなんて日常茶飯事で、怒られないようにしても、やっぱり怒られて

だけど、その日常には愛があった。

その時お母さんはまだ専業主婦で、お父さんは海外貿易船のクルーだった為、1年のうち1ヶ月間しか家には帰ってこられなかった。
お母さんはとても真面目な人で、私を身ごもった時から育児書を読みあさり、最良の教育方針を打ち出して、すべてそれを実行していた。
日々の食事制限も、厳しさも、すべて私のためだった。

近所の幼稚園ではなく、週に2回しかない、ちょっと変わった教育方針の幼稚園へ通い、
右脳の発達にいいからと、気がついたらバイオリンを始めていて、
耳を鍛えるために「聴音」という教室にも通い、
幼児教育とか、早期教育と名のつくものはひと通り経験していた。

だけど、毎日お母さんのこぐ自転車の後ろに乗って、春のあたたかい日差しや、夏のセミの鳴き声や、秋の木の葉の色づき、冬の寒さを感じる日々は本当に毎日キラキラと美しくて
お母さんは毎日綺麗なお弁当を作って、レンゲの咲く畑の中や、つくしの野原や、木陰や、どんぐり拾いの山に連れて行ってくれた。

バイオリンのレッスンでどれだけ怒られても、叩かれても、お母さんが大好きだった。私の世界で頼れるものはお母さんしかいなかった。

けれど、その日々は突然終わってしまう。

【 お母さんと、6歳の私 】

私の父は私が小学生になった年に船会社を辞め、パソコンスクールを起業した。

当時はまだめずらしいDOS-Vだけのパソコンスクールで、退職金を殆ど使って、教室と、数台のパソコンを準備したところからスタートした。

それまで専業主婦だった母は、父の仕事を支えるためと、常々読んでいた育児書に「6歳までは大切に育てなさい、6歳になったら手を放しなさい」と書いてあったので、フルタイムで働きに出ることになった。
「猪突猛進」を地で行く母には育児書に書いてあることが全てだった。そういうところは今でも変わっていない。

今までずっと、お母さんと一緒だったのに

これから一人で小学校に行って、帰ってきたら自分で鍵を開けて、お母さんが帰ってくる19時までずっと一人で待っていなくてはいけなくなった。

だけど、「お母さんも頑張るから、あなたも頑張りなさい。一年生になったんだからできるでしょ?」って言われたから、がんばろう。お母さんの為にがんばろうって思っていた。

毎日帰って、言いつけられたお風呂掃除と、お米を洗って炊いておく事をしたら、お母さんが帰ってくるまではずっとテレビを見てる。

お母さんが帰ってきたら、すごい勢いでお父さんと私のご飯の支度をしてくれるから、その間は話しかけてはいけない。

ご飯を食べたら、すぐにお風呂に入って、次の日の支度をして21時には寝なくてはいけない。

元々営業の才能があった母は、入社してすぐに高い営業成績をたたき出し、リーダーのポジションについていた。競争が好きで、一つのことに夢中になったら、もうそれ意外は目にはいらない人だった。

お母さんと学校のことを話す時間は、全くなかった。お母さんも仕事が楽しくて、私の学校は「うまくいっているんだろう」ということで特に何も聞かなかった。

今ならわかるよ。今ならわかるけど

その時の私にはわからなかった。

どうして毎日イライラしているのか
どうして私の話を聞いてくれないのか
どうして私の友だちの名前を覚えてくれないのか

でも、日曜日はいつもお父さんとお母さんと車で旅行に連れて行ってくれていた。日曜日の夜はちょっと贅沢な料亭でご飯を食べるのが習慣になっていた。

それくらい稼いでいたんだって、そして、そうしないとストレスが発散できなかったんだって。ずっと後になって教えてくれた。

小学生の間はずっとこんな具合で、私は中学生になった

【 お母さんと、13歳の私 】

年を追うごとにお母さんの帰りは遅くなっていった。22時を過ぎることもザラで、どうしても夕食まで我慢できなかった私は、次の日の朝食の食パンを1枚食べてしまって、お母さんにものすごく怒られた。

「そういう時は冷凍庫にある冷凍食品を温めて食べなさい、冷蔵庫にある食材や朝食のパンはなくなってるとお父さんの食事に困るから、さわらないで頂戴」

生活の中心は父親だった。私は自分で作ることの許可も出ないまま、バカの一つ覚えみたいにその言葉に従った。
怒ったお母さんは怖い。忙しい時だと特に、どのタイミングで怒り出すかわからなかった。

今ならわかるよ、忙しくて疲れてるとイライラするもんね。

家の中は父親中心に周り、母は父の恋人で、私の存在はまるでいないもののようだった。父親に嫌なことを言われても、いつも悪いのは私の態度だと言われ続けた

週末の旅行も、車の中では父と母だけがずっと話していて、私は会話に入れてもらえなかった。

次第に、週末は一人で過ごすようになっていった。

【 お母さんと、反抗期の私 】

思春期というものになって、人間関係が色々と面倒になって、学校でのトラブルを家庭で話すこともなくて、私も家でイライラすることが多くなった。

反抗期ってやつだ。

父親が気持ち悪いと思った。
母親はおかしいと思った。

友だちの家のお母さんはこんなんじゃない、どうしてこの家の中で私は「厄介者」の様に扱われているんだろう。私は「子ども」じゃないのかな、「居候」なのかな。そう思うと止まらなかった。

両親との喧嘩が増えた。

父親には殴られ、叩きだされ、母には罵られるそんな毎日だった。

ある日、鍋の準備を手伝いなさいと言われた。日曜日の小旅行から帰りが遅くなり、どんな事情であっても17時30分から夕食を食べたい父に合わせるプレッシャーからか、母はいつもよりもイライラしていた。
母は、私に茎についたままの状態のワカメを切りなさいと言った。

ワカメ。レベル高い。しかも茎についたほぼとれたての状態だ。

ワカメなんて水で戻すタイプのしかもちろん知らない。台所で勝手に料理したら怒られる環境だったのに、いきなりワカメ。ハードル高いなー

切った。どのように切ったのか自分でも覚えていないけど、多分。潔かったと思う。

で、突然の平手打ち

母「なんでワカメの切り方もわからないの!!!!」

私「…わからん、ワカメの切り方って一体どこで習うの?」

母「知ってて当たり前でしょうが!!」

私「……しらない」

母「ろくに手伝いも、料理もできない、何を考えているのかわからない、あんたなんか、産むんじゃなかった!」

あー、言っちゃった。それ、言っちゃった。

この会話だけは鮮明に覚えている。やっぱりワカメの理不尽さったらなかった。父は私に「何だお前、そんなことも知らないのか」とだけ言った。

お前も知らんやろうが

そこら辺から、夕食を一緒に食べることを拒んだ。
私の夕食は出なくなった。

幸い、(親の)お金だけはあった。べらぼうに稼いでいた母はお金に関しては本当に無頓着で、私が自由に使えるお金は常に5万円くらいはあった。芸能人の息子のようだ。
ちなみに今はありません、あの時のお金、貯金しておけばなぁー

【 18になった、家を出た 】

それから、何かある度に私は母と喧嘩になった。

「私のことを何も知ろうともしないのに偉そうに言わないで」

何度も、何度もそういった。「私のことをちゃんと見て、ちゃんと知ろうとして」と懇願しているのと変わりなかった。

でも、母にはその言葉は届かなかった。

「あんたはいつも親のことを馬鹿にしている」

していたのかもしれない、子ども1人満足に理解できなくて、自分のことだけを考えている両親を確かに軽視していたと思う。

私達は歩み寄ることのないまま、私は家を出た。

家を出てしばらくはほとんど連絡をしなかった、大学が楽しかったし、友だちといるほうがよっぽど充実していた。今までの悲しみや寂しさが嘘のような毎日だった。

GWや夏休みに家に帰ると、やっぱり厄介者扱いされた。

「あんたが帰ってくると家が汚れる」

悲しかった。事実そうだったのかもしれない、でもやっぱり顔をみていきなりそう言われると悲しい。

【 そして、そこから 】

母は仕事において人間関係で失敗した。今まで第一線でずっと責任を持って働いていたにもかかわらず、部下に裏切られる形で退職せざるを得なくなってしまった。

母は落ち込んだ。初めての挫折だった。

東京でふらふらしていた私に、しょっちゅう電話がかかってくるようになった。それくらい母の心は弱っていた。
今なら、話が出来るかもしれない。

「東京においでよ、気晴らしにさ」

私から母に声を掛けるなんてこと、出来るはずがなかった。私の言葉はいつも母の耳には入っていなかったから「こうしたらどう?」とか「こうしようよ」という提案はいつもスルーされていた。

「…そうね、そうしてみようかな」

普通の親子だったら何気ない、普通の会話だ。
だけど私は、私と母の距離感が変わるのを感じた。母は、初めて私を一人の人として接してくれたのだ。21歳の時だった。

そこから私達は、長い長い時間をかけて少しずつ、沢山の話をした。
友達のこと、学校のこと、父のこと、おばあちゃんのこと、彼氏のこと、昔のこと、悲しかったこと、嫌だったこと、嬉しかったこと

もちろん途中で喧嘩も何回もした。何回も何回も何回もした。

一度だけ、どうしても許せなくて、互いに首を絞めたこともある。

それくらい親子関係をこじらせていたんだ。二人で泣きながら謝った。謝れてよかったとおもった、話ができて本当に良かったと思った。

長い長い時間がかかったけれど、反抗期だった時の自分に、今の状態を教えてあげたい。

大丈夫だったよ、お母さんは、また私を見てくれたよ。って

【 子どもが出来て今わかること 】

私は今、子どもたちの母親であり、父親であり、一家の大黒柱でもある。

色々あって、もうどうしても一人では生きていけなくなった時に、母が手を差し伸べてくれた。
「あんたで失敗した事を、やりなおすわ」

そう言って、子どもたちのお世話をすべて引き受けてくれることになった。
昔6歳までそうしてくれたように、3人の子どもたちに愛情を注いでくれている。ちなみに今は10歳までしっかり育てるらしい。

あらためて教育系の本を図書館から大量に借りてきて、毎日のように読み漁り、私で失敗したことを繰り返さないようにしているらしい。
堂々と目の間で「失敗作」と言われるのは、あまり気持ちのいいものではないけれど、それはそれで母なりの反省と愛情なのかな、と思う。

だけど、私は母親として、あの言われて嫌だった言葉の数々を、子どもたちに言ってしまわないか不安になる。

私の今の状態は、あの時の母とよく似ているから。

仕事ばかりで、子どもたちの話を聞ける時間が限られてしまっているから。

【 母親のあなたにお願いしたいこと 】

忙しいと思う、余裕もないと思う。でも、一日一回、少しでいいから子どもの話に耳を傾けて欲しい。
小学生の男の子なんて本当に「だからなに?」っていう話しかしてくれないけれど、でも「母親が興味をもってくれた」という事実だけで喜べるから。

余談だけど先日なんて、朝の一番忙しい時間に真面目な顔して
「一つだけ言いたいことがあるんだけど…」
っていうから、何?って正座したら

「カッパって川にいて人を引きずり込んで尻子玉抜くんだって…!!」
ですよ。本当に小学生男子いみわからない。

こんな自由勝手で気ままな子どもたちだけど、できれば褒めて欲しい。認めてあげて欲しい。居てくれてよかったと言って欲しい。そして、抱きしめてあげて欲しい。できれば、大好きだよと伝えてあげて欲しい。

私が欲しかったすべてを、子どもたちに与えて欲しい。
そうすればきっと、いつかの力になるから。

私も、がんばるよ。

最終更新:3/26(日) 21:00
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