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加山雄三80歳! ビートルズ、黒澤明、趣味……自身が語った「若大将」秘話

4/1(土) 11:30配信

TOKYO FM+

4月11日は “若大将”こと、加山雄三さんの誕生日。今年で80歳を迎える加山さんは、一世を風靡した人気俳優であり、数々のヒット曲を生みだしたシンガーソングライターであり、サーフィンやスキーといった日本のアウトドアシーンのパイオニアでもあります。近年もテレビやCMでもご活躍の加山さん。80歳という節目に、加山雄三さんがこれまでの数々のエピソードをTOKYO FMの番組で語ってくれました。


◆「エレキと多重録音とビートルズ」

僕が最初に作った曲は「夜空の星」でした。実はあの曲、もともとはピアノの練習曲として作ったので、サビも全然違ったんです。でも「君といつまでも」のB面がないと言われて持っていったら、渡辺晋さんに「サビがつまらないからちょっと変えてよ」「サビって何ですか?」ってところから教わりつつ、一晩でラテンのコード進行に直して採用されました。

レコーディングしたのは加瀬邦彦がいた頃のブルージーンズ。あまりに最初と違う曲になっていたのに「アレンジの力ってすごいんだなぁ」と驚かされたものです。そこに岩谷時子さんがすごく良い歌詞を付けてくれて大ヒットしました。映画「エレキの若大将」ではパーティーで歌う曲として使ってもらったんですが、今にして思えばあの映画は完全に僕のPVで、本当にありがたいお話でした。

映画「海の若大将」で多重録音をするエピソードがありますが、あれは僕の実体験。高校時代に親父が買ってきた大きなワイヤーレコーダーやテープレコーダーで録音と再生を繰り返して多重録音をして遊んでいたんです。大学に入ってからブラザース・フォアのベース、ギター、コーラスをひとりでやって多重録音したこともあります。録音を重ねていくとだんだん音がザーザーしていくんですが、それでも最後にはちゃんとブラザース・フォアになったのが嬉しくてたまらなかったのをよく覚えています。

ビートルズが来日したときに「お会いになりますか?」と言われ、最初は「いや別に」と答えました。僕はエルヴィス・プレスリー派だったので、ビートルズにはどうにもなじめなくて。でも家に帰ってお祖母ちゃんに「馬鹿じゃないの!? 会いなよ!」と叱られて「やっぱり会いに行くわ」と。厳戒態勢のキャピトル東急ホテルでは思いきって警備の人に「どうもご苦労さん」と敬礼したら「ご苦労様です!」と通してくれました。顔が知れていると良いこともあるものですね。

最初に握手したのはリンゴ・スター。部屋に入ると彼らの内輪ネタで大盛り上がりしていたので「すまないね」と気を遣ってくれたのがポール・マッカートニー。そして「これからスキヤーキを食べる」と言うのですが、彼らは「自分たちでやる」と言ってボーイさんたちを帰してしまいます。ボーイさんが去り際に「加山さんなら、すき焼き屋の息子さんだからお願いしても大丈夫ですよね」と耳打ちするんですが、それは映画の設定だぞと(笑)。でも本物のすき焼き屋でロケをしたおかげで彼らにちゃんとしたすき焼きを作ることができたのは幸いでした。


◆「黒澤さんとの出会いが僕を変えました」

僕が始めて出演した映画「男対男」は三船敏郎さんや池部良さんがいて、別世界の人にしか思えませんでした。「こんな偉い人たちがエライことやってるのに俺なんかが入っていいのかな」と心許なさばかりが先に立っていましたね。でも東宝さんがたくさんお金を積んで宣伝をしてくれたおかげで僕はすごい勢いで売れてしまい、正直「竹竿の上に乗せられて、いつぶっ倒れるかわからない」という不安感がずっと拭えませんでした。

それがガラッと変わったのは黒澤明監督に出会ってからです。最初の「椿三十郎」で会ったとき、黒澤さんは僕に「君は白紙で良いよ」と言ってくれました。そのときは意味がさっぱりわからないまま「わかりました」と答えたんですが、それは「余計な芝居をするな」という意味だったみたいです。「加山、セリフは想えば出てくるんだよ」とも教わりましたが、黒澤さんはまるで人の心が読めるかのようで、「こんな人がいるならこの世界に残ってもいいや」と思えるようになりました。

厳しいことで有名な黒澤監督ですが、僕は怒られたことが一度もありません。あるときなんて、朝にサーフィンをやってから撮影所に行き、何度も撮り直されるシーンと強烈なライトに眠気を覚え、本番中に寝てしまったことがあります。そのときも「加山、眠いのか?」「はい」「加山のために30分休憩」と言われ、その後スタッフみんなに「特別扱いだぞ」とずいぶん妬まれました。でもあれは監督自身が休憩したかったに違いありません。結局、そのときは3時間の休憩になり、すっかり眠気の覚めた僕はギターを弾いて歌っていましたが。

「八甲田山」はとにかくキツい映画でした。森谷司郎監督が黒澤さんのところに付いていただけあって、リアルを追求して猛吹雪の中で撮影するんです。零下15度なのに普通の軍服で行軍するので、初日に耳が凍傷になる人が3人も出たほどでした。しかもその夜、ミーティングで「凍傷の人が出ました」と申告されても「戦争中もそうだったに違いない」と言われるような現場でした。

でも僕は小道具さんにお願いして、南極で使うムーンブーツの外側だけ軍靴にしてもらったり、あちこちにカイロを仕込めるチョッキを作って撮影に臨んだので、雪の中で寝転がって昼寝をしても大丈夫なくらいでした。みんなは寒さに震えながら「この寒さの中、雪の上で寝るなんてアイツは馬鹿じゃないか」と囁いていましたが、「そうじゃないんだよ、本当はこっちのほうが賢いんだよ」と内心でほくそ笑んだものです。


◆「サーフィンとスキーとVRバイオ」

最近はVRの「バイオハザード7」をやっています。360度どこから敵が来るのかわからないのはちょっとヤバイですね。真っ暗な部屋に入り、あっちこっちを見て、振り返って後ろも確認して、大丈夫だと思って戻ろうとした瞬間に襲われるのですからたまりません。「6」までは×印の照準を合わせないと当たらなかったのが、目線で当たるようになったのが良いですね。振り返った瞬間に撃っても当たります。

遊びといえば日本で最初にサーフィンをやったのは僕でした。誰もサーフボードなんて持っていないので、自分で作ったくらいですから。ちゃんとそのときの様子が日刊スポーツに「ハワイスタイル、波乗り第1号」という見出しで載っています。その写真が日本で撮られた証拠に、茅ヶ崎のえぼし岩がちゃんと写っていました。高校時代、雑誌にハワイで波乗りが流行っていると書いてあったので、日本でもできるだろうと思って挑戦したんです。

ウレタンなんてなかった時代なので、サーフボードは船の構造を参考に作りました。竜骨を5mmのベニヤで挟み込み、コーナーを丸く削ってフィンを付け、1斗缶のラッカーを取り寄せて色を塗ったらピカピカのいい感じに。なぜかワックスを塗るという知識はあったのでワックスを塗って海に漕ぎ出したら、3回目には立てました。今にして思えばグレッグ・ノールのサイズ、つまりロングボードだったのが良かったんでしょう。

「赤ひげ」の撮影中には三船敏郎さんを誘って船舶免許を取りました。2人で勉強して試験を受けたら、三船さんの出来が早いのなんの。15分くらいで書き終えて、一番先に提出して出て行ってしまったんです。僕はまだ半分くらいしか書いてなかったので「すげぇ!」と思っていたら、僕が1500満点中1480点だったのに対して、三船さんはギリギリの合格点でした。試験官は「乱暴だねぇ」と苦笑していましたが、だからこそ三船さんの要所を掴む勘がすごかったとも言えます。

僕は大学の部活動が嫌で、スキーの同好会を作った最初の頃の人間でもあります。なにせ慶應のスキー部に入ったらいきなり東京~熱海間のマラソンでしたから。僕らの同好会は志賀高原の石の湯がホームゲレンデで、リフトなんてないので宿にロープトゥを作ってもらい、自分たちで半日がかりで圧雪して、そこらの木の枝をポールにして練習したんです。冬はずっとそこに籠もって、学校の試験のときだけ山を下りるような生活でした。「アルプスの若大将」はそんな我々の体験そのままです。


◆4月21日(金)、東京国際フォーラムホールAにて「加山雄三80歳!若大将一夜限りのスペシャルライブ~君といる時が一番しあわせなんだ~」が開催されます。詳しくは加山雄三さんのオフィシャルサイトにてご確認ください。

(TOKYO FM「ピートのふしぎなガレージ」2017年3月25日放送より)

最終更新:4/1(土) 11:45
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