ここから本文です

「東京ガールズコレクションに豆腐」の妄想を現実に 社長令嬢と結婚した男の苦闘

4/1(土) 17:00配信

AbemaTIMES

 老舗企業であるにもかかわらず、6年で4倍という驚異的な成長を成し遂げた企業がある。創業60年を越えるという歴史を誇る豆腐メーカー・相模屋食料だ。立役者は3代目社長の鳥越淳司。豆腐の製造という、大きな変化が生まれにくい業態の中で、一体どのような手法で見事な躍進に成功したのだろうか。

 「相模屋食料」の社名は知らなくとも、「ザクとうふ」の名を知っている人は多いのではないだろうか。機動戦士ガンダムに登場する量産型モビルスーツ「ザク」の頭部をかたどった豆腐はファンの心を捉え、大ヒットを記録した。

 誕生のきっかけは些細なことだった。ある日、ガンプラ30周年のイベントに足を運んだ鳥越がが目にした、日清や全日空がガンダムとコラボレーションしたオリジナル商品。「じゃあ豆腐でもできるんじゃないかな」と閃いたという。

 思い立ったら行動が早いのが鳥越だ。すぐさまバンダイにガンダムと豆腐のコラボレーション企画を持ち込んだ。しかし当初はバンダイどころか、相模屋食料の社内からの反対も根強かったという。

 その理由の一つについて、鳥越は「抜けなかったんです」と振り返る。

 「抜ける」商品とは、業界用語でパックからつるりと豆腐をキレイに出すことができる商品のこと。「抜けない豆腐」には商品価値がないとされているのだ。

 だが鳥越は職人たちに向かって「これは趣味です!抜けなくたっていいんです。だってこれ、食べるんじゃなくて飾るんですから」と言ってのけた。そんな鳥越の熱意にほだされるように、職人たちも豆腐作りに付き合うようになる。

深夜1時から職人たちの仕事を“見て盗む“日々

 「オフィスには池田秀一さん(シャアの声優)のサインがあるんですよ」と穏やかな笑みをたたえる“ガンオタ“の鳥越だが、その裏には“豆腐職人“としての泥臭い努力があった。


 元々は乳製品メーカーの雪印で営業マンとして働いていた鳥越。当時は豆乳ブーム黎明期で、豆乳を仕入れるために目をつけたのが「相模屋食料」だった。積極的に営業をかけていくうちに、2代目社長の娘と仲良くなった。

 だが、そんな鳥越に大きな転機が訪れる。それが雪印の食中毒事件だ。当時、福島県で営業マンをしていた鳥越も大阪へ駆り出され「土下座行脚の日々」だったという。「一に謝罪、二に謝罪、三に謝罪、四に謝罪、五に謝罪」と言われながら、毎日、客先に行って頭を下げるうちにあることに気づく。

 「どうやって製品が作られているか、知識としては知っていましたが、具体的には何も知らなかったんです」。

 当時、雪印は製造と販売が厳格に分離される「製販分離」を敷いており、営業の社員が製造の現場に足を踏み入れることはなかった。

 「モノ作りの会社にいながらモノ作りを知らないのは罪である」と思い知らされた鳥越。ならば自分でやってみようと、妻の父が社長を勤めていた会社に入り、豆腐作りの道を勉強してみようと決意した。

 だが、鳥越を待っていたのは過酷な道だった。「木綿豆腐と絹豆腐の違いもわからないような状態」の鳥越に対し、職人たちが取った態度は「無視」だった。教えずに見て学べ、というわけだ。そこから鳥越の苦闘が始まる。深夜1時から勤務し、2年間、ひたすら豆腐作りの修行に打ち込んだ。

 相模屋食料の現会長である江原寛一は、当時の偽らざる心境をこう語る。「(まだ誰も来ない)深夜2時前からやってきて、遅くまで仕事をしていた。経理もしたことないから簿記を取得して。“早く帰れ“と言っても帰らない。正直、途中でもたずに辞めると思った」。

こうした泥臭い努力が実を結び、気づけば鳥越は独力で豆腐が作れるようになっていた。

 豆腐作りを覚えた3年目に、社運を賭けたプロジェクトに直面する。それが41億円の借入金で大型工場を建設しようという計画だ。今でこそ200億円を超える企業規模だが、当時の相模屋食料の売上は約32億円。このプロジェクトがいかに大規模なものかが伺えるだろう。

 「1000億円企業になる」と公言した義父がぶち上げたこの計画には反対者が相次いた。だが、鳥越は「ぜひやりましょう」と賛成側に回る。

 そして2005年に完成した「第三工場」は、1日約60万丁の生産が可能な日本最大規模の豆腐工場だ。とは言え、販売ルートも勝算もない。とにかく「美味しい豆腐作りをしていればいつか認めてもらえる」という思いだけだった。鳥越自身も新工場の深夜番に回り、不眠不休で働いた。

1/2ページ

最終更新:4/1(土) 18:24
AbemaTIMES