ここから本文です

《ブラジル》県連故郷巡り=「承前啓後」=ポルト・ヴェーリョとパウマス(2)=29家族中、4家族のみ残留

4/5(水) 6:40配信

ニッケイ新聞

 ポルト・ヴェーリョのセントロから、ボリビアとの国境の町アブナンまでは、直線距離でわずか190キロ。ところが首都ブラジリアまでは1900キロ、サンパウロ市にいたっては2465キロもある。アマゾン河口の町ベレンまでは、やはり1900キロも。東京駅から静岡駅で約190キロ、2千キロなら台湾にとどく。ブラジルの大きさを改めて痛感する。
     ◎
 ポルト・ヴェーリョのセントロから9月13日移住地までは、約10キロ。舗装道路のある今なら大した距離ではない。
 だが1954年当時、竹中さんは「舗装した道路なんてどこにもなかった。当時、唯一の交通手段は船で、ベレンから15日もかかったのよ。日本からベレンまで30日。そこから15日も川船であがるのよ」としみじみいう。
 「ベレンまでは大阪商船の船だったから日本食。ベレンからはブラジル食になった。朝ごはんが急にパンに。ああ、ブラジルに来たんだって、幼心に思ったわ。小さな川船に30家族180人の荷物をのせた。沈むんじゃないかって、心配したぐらい。誰もここの料理しらないから、フェイジョンに砂糖を入れて食べたのよ」と笑う。
 そのリオ・タパジョス号は300トンあり、川船としては最大級、薪を燃やす蒸気船だった。飲料水は川水だ。寄港するたびに薪と食料の生きた牛が積まれた。
 ポルト・ヴェーリョで上陸したのは、結局29家族(辻移民枠)。一家族6人は日本に送り返された。
 日本からの持参金は最低5万円、最高100万円と大きな開きがあり、その後の生活の様々な面に影響をもたらした。
 上陸した7月22日が入植記念日となり、各家族には30~50町歩が与えられた。事前の契約では4町歩の伐木済みで、耕地に家を建てるまでの合宿所も建設されているはずだった。ところが現実は、原始林が広がっているだけ。みな「仮合宿所」に入った。
 29家族が入植して、現在までに残っているのは、たった4家族。《軍隊は部隊人員を3割喪ったら「全滅」、5割なら「壊滅」、10割なら「殲滅」》との話を聞いたことがある。これを入植者に当てはめれば、この移住地は「殲滅」か「玉砕」だ。
 一行は初日(17日)の昼、マデイラ川沿いのレストランで脂ののったタンバキの焼き魚を堪能し、午後はサントアントニオ発電所を見学した。
 その夕食時、竹中さんは、現地の田辺俊介さん(ロンドニア日伯文化協会元会長)夫妻と顔を合わせ、がっちりと抱き合って再会を喜んだ。
 田辺さんは「まさか、来てくれるとは。60年ぶりだ。よく来てくれた」と繰り返した。夕食終了まで、3人は60年分の後日談を尽きることなく話した。(つづく、深沢正雪記者)



□大耳小耳□関連コラム
     ◎
 べレンまで来て、なぜ「一家族6人」は、日本に送り返されたのだろうか? 『海外移住』第8号によれば、その家族の親類がサンパウロにおり、最初からベレンに到着したら移民団を抜け、グァポレへは行かずにサンパウロへ向かう計画だったらしい。移住斡旋をした海外協会連合会は、計画移民として運賃や携行金の補助をした関係から、《このような者を入国させると、第2、第3の悪質者がますます抜け穴を狙う》としてベレンで降ろさずに送り返した―とある。その家長は「佐野金蔵」という。そのまま日本で暮らしたのか。それとも別の方法で、再びブラジルに渡ったのか…。

最終更新:4/5(水) 6:40
ニッケイ新聞